■第53号(2016.4発行) 特集:日本人が森に学ぶこと。

フリースタイル林業 〈前編〉─その成立と日本林業─

愛媛大学客員教授 村尾 行一(談)


1.都市の中の森、森の中の都市。
2.未来を予断しない林業。
3.すべてを型にはめた林業の時代。
4.生態学を基礎とする林学・林業の誕生。
5.森の民に「なった」ドイツ人。
6.人材の育成こそがカギ。



ドイツで生まれ、ヨーロッパではスタンダードとなりつつある「フリースタイル林業」は、その成り立ちも、実際の施業も、日本の林業とは大きく異なります。木材生産を行いつつ、同時に森林の公益的諸機能を発揮させていく、そのための哲学と知見は、どのようにして築かれ、育まれたのでしょうか。まず、その歴史を紐解きながら、日本の林業との差異を考えます。

■1.都市の中の森、森の中の都市。
ドイツの人々、特に都市部の人々は、森を歩き、そこで時間を過ごすことが大好きです。生活圏内には気軽に訪れることのできる森林が数多くあり、たとえば、大都会であるミュンヘンの中心部にも広大な森林公園がいくつも整備されています。公園の端は、さらにその先の森林と分かちがたくつながっており、人々の暮らしはさながら森に抱かれているようです。
公園の森は広葉樹と針葉樹が混じった多層林で、昼休みや休日には多くの人々が散策に訪れます。幼い子供を連れた人も、年配の夫婦もいます。乳母車を押していても、健脚でなくても、歩きやすいように林道が整備されているからです。
同時に、そこでは、郊外の森林と同じように林業が営まれています。木材をはじめとする様々な林産物生産や畜産、養蜂や薬品の製造なども、観光やレクリエーションも、林業の一環としてごくあたり前に行われているのです。
しかし、こうした環境も、人々の森林への接し方も、営まれている林業も、最初から現在のようだったわけではありません。時代を変えるような転換を経て、時間をかけて築き上げられたものなのです。その過程については後述することとして、まずは、そこで行われている林業──「フリースタイル林業」についてみていきましょう。

■2.未来を予断しない林業。
今日ドイツをはじめヨーロッパの林業界で主流となりつつあるものは、1953年に当時ドイツ・ミュンヘン大学の造林学教授だったケストラーが提唱した「フリースタイル林業(自由形林業)」──あらかじめ定めた鋳型に林業の実際をはめこむことを拒否する林業です。
フリースタイル林業は、林業生産に目的を設定しません。だから、その目的達成のための経営計画も策定しません。したがって伐期も定めません。長伐期林業か短伐期林業かという議論は無用です。木というものは農作物と違って生理的熟期がありませんから、5年生で伐っても50年生で伐っても、100年生で伐っても200年生で伐っても、その林木が最も有利に売れる時に、しかも1本・2本ずつでもまとめてでも伐採すればよいのです。また樹種も特定しません。
なぜこうした方法をとるか。それは、伐期事前決定も樹種特定も未来を予断することだからで、この未来予断は林業には不適当だからです。森林(森林生態系)は不断に、しかも大きく変動します。そして森林に対する人間の欲求もまた多様であり、かつ大きく変動します。それはなにも林業が長期生産業だからというだけではありません。戦後日本のわずか70年だけをとっても社会の森林・林業に対するニーズがいかに度々大きく変化したかを考えれば、未来予測がいかに困難きわまりないかがわかります。
フリースタイル林業では皆伐と択伐の区別をしません。なぜなら、たとえば小面積皆伐と群状択伐は違いが区別できませんし、皆伐施業につきものの間伐と単木択伐も区別がつかないからです。また「主伐」という考えをしません。単に「終伐」ととらえます。何回目の伐採がその経営にとって主要であったかは事後にわかることだからです。
林木更新も人工造林と天然更新の併用です。「除伐」という考えはしません。立木密度は経済性にも大きくかかわるものですが、天然自然の立木密度と比較すると、「密植造林」といわれる吉野林業の植栽本数でさえ疎植です。しかし天然自然に発生してくる林木を活用すれば天然自然の立木密度を経済的に維持できます。また「雑木」という考えもなくなります。なぜなら現時点での「非有用木」が今後の「有用木」となる可能性も大ですから。除伐しなければ、自ずから限りなく天然木に近い形質の林木と多層混交林とができ、その時々に有利な樹種・形質の林木を伐採することができます。要するにエコロジカル(生態学的)でもありエコノミカル(経済的)でもある林業ができるのです。
したがって造材=玉切りも3mなら3mと既成寸法にぶつ切りする機械的な定尺造材主義ではなく、あくまでも買い手の具体的なニーズに応じた寸法で造材する「オーダーカット」方式なのです。ただしそれが結果的に定尺ならそれはそれでまたよしです。

■3.すべてを型にはめた林業の時代。
では次に、こうした「フリースタイル林業」が生まれるに至ったドイツ林業・林学の歴史を辿ってみましょう。
17・18世紀という近世のドイツ、ひいてはヨーロッパは、政治的には絶対主義時代、経済的には交易による利潤を重視した重商主義時代でした。交易の対象となる商品で重要だったのは銀・銅・錫・岩塩といった地下資源と木材でした。だから森林は過伐乱伐された上に、そもそも鉱業は木炭・坑木など木材を大量に消費すると同時に鉱害を発生して森林を大々的に破壊します。つまり、絶対主義体制の基本経済体質である重商主義は、その基盤である森林を自らの手で消滅しつづけていたのです。
そこで体制は苦肉の策として「保続林業(今でいう「持続可能な林業」)」と「木材栽培業」=農業的林業を林業の二大原則としました。「保続林業」とは伐採量を森林材積成長量以下に留めることで、この原則は1713年にザクセン財政官僚のカルロヴィッツが確立しました。「木材栽培業(農業的林業)」とは、要するに成長の早い樹種だけの森林を大々的に人工造成しては、育てた林木を皆伐することです。目的樹種以外の林木は農業での除草と同じく除伐されました。
しかし、所期の目的は達成されませんでした。そこで19世紀になって、近世貴族階級的林学に替わる近代市民階級的林学が誕生しました。その代表がコッタで、彼はザクセン王国首都ドレスデンの近郊ターラントにザクセン王立森林アカデミー(現・ドレスデン工科大学林学部)を創立しました。時に1816年のことです(この流れを「ターラント林学」といっておきます)。
ターラント林学の示した林業は、保続を大原則としていること、成長の早い樹種からなる単純一斉林の大面積人工造林主義という木材栽培業であることでは、近世林業と変わりありません。施肥や品種改良など木材栽培業の特段の進化以外に、その新たな特徴をあげると──多くの決めごとを定めて林業をパターン化すること、目的を設定すること、計画を策定すること、伐期を決定すること、「法正林」という理想的林業を描いて現実の林業を可能な限りそれに近づけようとすること、そして「中央」の規定と指示に「現場」を従わせることなどがあります。
これはあまりにも画一主義的・計画主義的・人工主義的な林業でしたから、「社会」と「自然」とにしっぺ返しを受けたのも当然です。たとえば、成林した時には目的とした産物に需要が激減していたり、生物害・気象害で森林が大打撃を受けたりすることが度々だったのです。

■4.生態学を基礎とする林学・林業の誕生。
林業を、単に「木を伐って、植えて育てて、また伐る」だけの営みとし、結果として林業と森林生態系に打撃を与えたターラント林学への厳しい批判が生じたのは当然でした。その批判の急先鋒がミュンヘン大学経済学部林学科、わけてもその初代造林学・森林利用学教授ガイアーでした。1863年以降公にされる彼の主張は、「自然に還れ」であり、だから「あるべき林業は合自然的かつ近自然的林業」です。
合自然的林業とは森林生態学に則る林業です。それはまた森林を単なる林木集団とみなさず、あくまでも「生命共同体」──つまり後の概念での「森林生態系」ととらえることです。当時は生態系=エコシステムどころか生態学=エコロジーという概念そのものが生まれていませんでした。生態学概念の誕生は1866年のこと。「ミュンヘン林学」がいかに早熟な実学だったかがわかります。また、近自然的林業とは人工林でも限りなく天然林に近い森林を育て、その森林を利用する林業です。だから、林業が、農業を模倣する木材栽培業であることを激しく否定しました。そして、林業が合自然的・近自然的であるために、林業をあくまでも「現場林業人の職業」としました。
この合自然的・近自然的林業は、具体的には人工造林・天然更新併用による多層混交林の造成を主体とし、大面積皆伐施業を否定しますから、森林は必然的に多様になり、多機能性も強化されます。この多機能性に着目して、そのことを林業と林政の根幹としたのがミュンヘン大学林政学教授だったディーテリヒです。彼は、林業を「ひとつの森林から同時に多くの機能を発揮させること」、そして林政とは「多機能林業を推進すること」としました。1953年のことです。
すると保続が林業の原則であることも揺らいできます。木材収穫の保続なら現実性がありますが、「多機能性の保続」とは現実にどのような施業なのか不明です。そこで保続に替わって保続原則が企図したことを実現するものが問われます。それは森林の生態学的健康さの保持でしょう。それを可能にするものこそ合自然的・近自然的な多機能林業であり、具体的にいえば、それこそがフリースタイル林業なのです。
こうした林業が成立した時はじめて林業は「現代林業」となるのです。したがって、近代林業であるターラント林学は近世林業から現代林業への過渡期的林業なのです。そう考えれば、日本の林業・林政──すなわち単純一斉人工林一辺倒で、目的や伐期にこだわり、中央集権的でしかも多機能的利用といっても多機能林業とは似て非なる森林の機能別区分をしている──は、しょせん過渡期的なものに過ぎないことがわかると思います。

■5.森の民に「なった」ドイツ人。
ターラント林学による木材栽培業からフリースタイル林業への転換は、ドイツにおいても長い時間を要することでした。しかし、ドイツはその転換を、高度な知識や技術を持つ現場林業人の育成と、彼らを通した市民への啓蒙によって着実に実行します。
一例を挙げれば、第二次世界大戦後には、ミュンヘンの市街地に隣接して広がるトウヒやモミの大一斉単純林を広葉樹との混交林に転換する大掛かりな事業が始まりました(この事業は現在も継続しています)。また、1972年のミュンヘンオリンピックでは、馬術競技場や自転車競技場などの大規模施設を木造で建設し、これを好機として唯一森林のなかったミュンヘン市北部に山を築き、木々を植え、一大緑地を造成する都市再開発を行ったのです。そこに通底するのは「森あっての都市」という考え方です。
実は中近世のヨーロッパでは、森林をはじめとする自然は魔物の棲む恐ろしい場所であり、都市はそうした自然と無縁なものであるべきだと考えられていました。そのため、都市からできるかぎり自然を排除し、そのことで都市は人工的で不衛生な過密空間となっていたのです。したがって都市における近代化とは、そうした状態から脱却し、自然美に満ちた地域社会をつくることでした。日本の「近代化」が、国じゅうを鉄とコンクリートとプラスチックで固めることだったのに比べて、あまりにも大きな違いを感じます。国土の7割が森林で、「木の文化」を自認する日本人は、ヨーロッパを「石の文化」だと思いがちです。けれど、彼らは歴史の中で、自然の価値や森林の美と重要性に気づき、知見を蓄積しました。よりよい林業の理論を求め、それを実践しました。そうした歩みを通して、「木の文化」を育み、森の民に「なっていった」のだといえるでしょう。

■6.人材の育成こそがカギ。
冒頭で述べたように、ミュンヘン市街地の森林公園では当然のように林業が行われています。繰り返しになりますが、木材などの林産物を得ることと同時に、畜産や養蜂、観光やレクリエーションなども林業の一環です。その結果、森林は、災害防備や水源涵養、大気浄化、水質保全などの役割もきわめてあたり前に果たしています。かつてディーテリヒが述べたように、「森林生態系の多様性を総体として活用するのが林業」なのです(日本で行われているような、森林をゾーニングしていわゆる「多面的機能」を割り当てる、というようなこととは大いに違いがあります)。そして、それを日常的に見ている市民にとって、林業はきわめて身近な営みです。
フリースタイルで行われる林業は、森林の生態系全体を維持し、森林を求める市民のニーズに応えながら生産を行い、人間と森林が共生していくための橋渡しをする存在です。たった1本の木を伐るにあたっても、そのことが残った林木の生育を促進するかどうか、また、林床が崩壊したり土砂が流出しないかといった検討の上での選択をします。そうすることで、森林から生まれる様々な林産物も、森林の環境そのものも、森林にあるすべてを活かしつくす林業──どの1本の木も無駄にしない、エコロジカルでエコノミカルな林業が成立するのです。そうしたフリースタイル林業のありようが、何十年という時間と手間とコストをかけて結果的に売れない木を育てたり、あるいは、運搬経費に見合う部分だけをヘリコプターで運び出してそれ以外を切り捨てておくというような、日本で行われている方法といかに対照的であるか、考えてみてほしいと思います。
これまで続けてきた考え方や方法を転換することは容易ではないでしょう。けれど、日本林業の現状と、将来進むべき道を考える時、それはどうしても必要なことだと思います。そして、その転換を実現するにあたって何より大きな役割を果たすのが人材です。林学を深く理解し、現場の森林で実践し、現代林業を社会の人々に伝えていく人材です。次回は、このお話をしたいと思います。


[村尾 行一]
1934年大連市生まれ。東京大学農学部林学科卒業、同大学院生物系研究科修士課程修了、同大学院農学系研究科博士課程修了。農学博士。国有林・林業経営研究所研究員、京都大学助手、東京大学助手、ミュンヘン大学林学部客員講師、愛媛大学教授などを歴任。国内外のフィールドワークに基づき、森林の現場に立脚した提言を続けている。
『東濃檜物語』(編著、都市文化社)、『山村のルネサンス』(都市文化社)、『間違いだらけの日本林業』(日本林業調査会)など著書多数。