■第37号(2008.4発行) 特集:日本人が森に学ぶこと。

「エコ・フォレスティング」
すべての人が主役の、森林との新しい関係。

国連食料農業機関(FAO)主任技術アドバイザー 柴田晋吾(談)


1.「FORESTする」という発想。
2.消えゆく森。森を失う人間。
3.複雑化する森林への要請。
4.強くて弱い。それが、自然。
5.関わり方の数だけ、エコ・フォレスティングがある。
6.主役は、普通の人々。狭義の「フォレスティング」。
7.多様性の時代を、森とともに生き抜くために。



昨年12月に開催されたCOP13(国連気候変動枠組み条約第13回締約国会合)では、新たな課題として、途上国の森林減少・劣化対策による二酸化炭素増加を防ぐ仕組みの構築が取り上げられました。一方で、二酸化炭素削減のための枠組みづくりでは、依然各国の考え方の違いも多く見られました。地球規模での環境が大きく変化し、それに対応することが求められる時代に、私たちはどのような考え方で森林と関わっていくべきなのでしょうか。「エコ・フォレスティング」という新しい視点を通して、これまでとこれからを考えます。

■1.「FORESTする」という発想。
「フォレスティング FORESTING」――少し耳慣れない言葉かもしれません。これは、「森林」を意味する「forest」を動詞として使った、言うなれば、「forestする」というような表現です。バードウォッチングをすることを「birding」と言い、最近では音楽を楽しむことを「musicing」という言葉で表し始めたように、森林と関わり、働きかけ、楽しむことを表す言葉として使うことを提案しています。
もともと英語では、経済活動である「林業」は「フォレストリー forestry」という言葉で表されてきました。やがて、時代とともに木材生産以外の価値も重要視されるようになり、より総合的な「森林業」を意味する「ホリスティック・フォレストリー holistic forestry」という表現も生まれました。「フォレスティング」は、これらの言葉よりさらに広い概念です。
それは、木材を生産することはもちろん、様々な林産物を採取すること、水や生物多様性、二酸化炭素に着目して森林を管理すること、さらには、レクリエーションとして森林を歩いたり環境教育を行ったり・・・そうした人類の森林と関わる行為のすべてが含まれます。異なる思想、異なる利害の中で、時には競合する様々な行為を「フォレスティング」として据えなおすことで、これからの人類と森林との関係が見えてくるのではないか。そして、森林との関わりを問いなおすことは、地球規模の大きな環境の変化に直面している現在、避けて通れないことだと考えたからです。

■2.消え行く森。森を失う人間。
地球温暖化が徐々に現実化するなど、高まる危機感を背景に、誰もが環境について考えざるを得ない時代になりました。資源やエネルギーを大量に消費するライフスタイルをはじめ、現在文明社会そのものの見直しが必要だと思う人も増えてきました。森林に対しても、木材生産や木材利用自体が環境価値を高める一面が見直されているとともに、二酸化炭素の吸収や水源涵養、生態系維持、レクリエーション利用などの「社会的価値」を求める動きが高まってきています。
しかし、その一方で、経済原理によって森林はどんどん消え続けています。
開発途上国の人口増加により、世界の人口は2050年には現在の1.5倍の90億人になると予想されています。こうした国々では天然林の減少が依然として続いており、今後30年間でさらに年間380万haの森林が農地に転換され続けるという予測もあります。熱帯林の減少が注目を集め始めた1980年代からすでに20年以上が経過していますが、なかなか決め手となる対策がなく、国連食料農業機関(FAO)の統計によれば、現在も、世界で毎年1300万haの森林が減少しています。
問題は、それだけではありません。森林は、面積の減少だけでなく質的な劣化も進んでいると思われるのですが、それらは表面化しにくいのです。
アジア地域について見れば、ここ数年、森林面積は総体でプラスに転じました。しかしこれは中国などの大面積の植林によるもので、インドネシアなど各国の天然林の減少は過去数十年間同じような割合で続いています。食料、燃料、ファイバーなどの市場が土地利用の競争を激化させてきており、インドネシアでは,2010年までに天然林からバイオエネルギーの原料である油ヤシへの転換が100万haにのぼり、マレーシアのサラワクでは、2005年現在ですでに50万haの油ヤシ林がありますが、2010年までには倍増するといわれています。こうした現象を食い止めないと、早晩地球上から天然林が消失してしまうという危機感を抱かずにはいられません。
それと並行して、都市部への著しい人口集中が世界規模で起こっています。アジアでも、2030年までに人口の6割以上が都市部に住むことになると予想されています。結果として、多くの人々にとって森や自然(特に、天然林や郷土樹種など)が、次第に身近な存在ではなくなりつつある状況が生まれています。アメリカでは、近年、子供たちが自然とのふれあいの欠如からNDD(自然欠乏疾患 Nature Defeciency Disorder)を発症するとう報告がされています。また、その一方で、アメリカでは、オフロードビークルの数が2003年までの10年間で倍増するなどの背景から、不適切なレクリエーション利用が問題になっており、このことが稀少生物種全体の三分の一の減少を引き起こしているといわれています。日本でも、都市近郊部の二次林や農地が住宅地などに転換される例が目に付きます。いままで当たり前にあったものが失われ、森林や自然に触れるためには努力が必要な時代になりつつあるのです。
昨年12月に開催されたCOP13(国連気候変動枠組み条約第13回締約国会合)では、森林の二酸化炭素吸収機能についてREDDと称される「途上国の森林減少・劣化に由来する(二酸化炭素の)排出」を削減するための活動や能力開発の必要性が盛り込まれました。森林の減少を国際的な問題として認識し、改善の必要性を明示したわけですが、国際交渉での利害の対立や各国の現状を見ていると、実現のための前途は依然険しいものがあると感じます。しかしながら、これらの傾向をなんとか逆転させなければなりません。

■3.複雑化する森林への要請。
では、人間にとっての森林の価値は、どのようにして変化してきたのでしょうか。
1980年代ごろ以前まで、人間と森林との関係は、木材生産のために林業を職業とする人たちが森林に関わるという、比較的単純な構図が圧倒的でした。二酸化炭素吸収や水源涵養、景観美、生物多様性・生態系維持といったような多様な価値が世界的に顕在化、高度化したのは、1990年代ごろ以降のことです。それまで「外部経済価値(経済で取引されない価値)」とされてきた「社会的価値」が、次第に主役に踊り出るようになったのです。そして、周知のように、二酸化炭素吸収をはじめとした森林のサービス価値も経済で取引されようとしてきています。
それにともなって、森林に関心を持つ人や森林から利益を受ける人も多様になり、森林をどのように役立て、または守っていくか、といったような意志決定過程にも、様々な立場の人々が参加するようになっています。参加する人が増え、立場が多様化すれば、意見をまとめることもそれだけ難しくなる。典型的な例が、アメリカにあります。
アメリカでは、19世紀から乱伐と森林保護の動きを繰り返してきました。開発と木材生産を目的とした森林伐採によって急激に森林が失われた1890年代、危機感をつのらせた人々が、レッドウッドの老木を保護することを目的とした環境NPOを設立。やがて国立公園指定などによる大規模な森林(自然)保護も実現しました。しかし、一方で森林の伐採も止まらず、1920年までに北東部の老齢林の96%が消滅し、アメリカ全土でも森林面積が30%以上減少したといいます。その後も第2次世界大戦とその後の住宅需要などから木材生産量が増加、それとともに環境保護運動も活発になり、「木材生産」と「環境保護」が対立する時代が続きました。
そこで、1976年に制定された国有林管理経営法では、国有林計画の策定に地域住民の意見を取り入れることが義務付けられ、野生生物やレクリエーション、社会科学などの専門家を含む総合的な計画策定チームが組まれました。様々な立場の人々が意見を出し合うことで、スムーズな森林政策の実施が期待されたのですが、結果として起こったのは、多種多様な異議申し立てと訴訟でした。動物を守りたいと考える人、景観を維持したいと考える人、木材生産を中心に考える人、地域の人々のレクリエーションの場として考える人・・・。1991年までに、実に1,100以上の異議申し立てが出され、それに対応することで森林計画の策定期間は延びに延び、10年以上の期間を要したものも少なくありません。環境影響評価の費用を計上するために、生産された木材の価格が高騰するといったデメリットも生み出しました。
このアメリカの事例は、関宛木にも貴重な教訓を提供しています。森林に対する価値観が多様であること、そして、そこから生まれる多様な要請を満たすことの難しさがよくわかるでしょう。折り合う場所を見つけるためには。経済も、環境も、レクリエーションなどの活動も、対立するものとせずに考える必要がある。そこに、森林に関わるすべての行為を「フォレスティング」として包括し、一定の共通した哲学を共有することの重要性がるのです。

■4.強くて弱い。それが、自然。
一定の共通した哲学――それは、「エコ」です。
フォレスティングにおけるすべての行為は、「エコ」であるかどうか――すなわち、サステナブル(Sustainable=持続可能)かどうかという視点から判断されなければなりません。森林(と、それが有する生態系)は大きなダメージを受けても元に戻る力を持っている一方で、意外に脆弱な存在でもあるからです。人間の強い干渉は、自然を回復不可能にすることがある、そのことへの認識が必要なのです。
自然への働きかけをコントロールする際の指標として、歴史的変動範囲(Historical Range Variability 'HRV)という考え方があります。生態系に改変が加えられた場合、それが歴史的に起こった範囲内の改変にとどまれば、その後の生態系に与える影響がある程度予測できる(逆に言えば、その範囲を超えてしまえばその後の変化は予測できない)というものです。たとえば、種を絶滅させてしまえば、それはもう元には戻せません。あるいは、焼畑農業などに見られる火入れも、あまりに頻繁に、大きな規模で行えば、歴史的変動範囲外の変化を引き起こします。大面積の天然林の農地等への転換もあてはまるでしょう。さらに、現在の人間の様々な活動が地球の気候に影響を与えていることは、この典型的な例といえるでしょう。その対極にあるのが、世界中で、伝統的に守られてきた森林です。たとえば、フランスのトロンセイのナラ林では、数世紀わたって持続的に生産が行われています。伐期は数百年以上。巨木がたくさんある様子は天然林のようで、人間の営みが行われているという雰囲気はまったくありません。日本でも、古くからの伝統的な林業地には随所に良い森が残っているし、北海道の東大フラノ演習林などは世界に誇れる亜寒帯域の針広混交の複雑な天然林の管理の事例だといえると思います。

■5.関わり方の数だけ、エコ・フォレスティングがある。
伝統的な林業の手法以外にも、森林との関わり方の数だけ、エコ・フォレスティングを実践する方法があります。
木材生産の分野では、森林認証を受けた森林での施業があてはまるでしょう(ただ、認証の方法や基準は認証機関によって異なるため、一概には言えませんが)。また、キノコ類やナッツ、ゴムやメープルシロップといった木材以外の生産物(非木材森林産品)の生産や採取も、一部で認証の動きが始まっています。こうした生産物は森林を伐採しないですむため、一見、木材生産よりサステナブルであるかのように思えるのですが、特定の産物の過剰採取による資源の枯渇など、問題がないわけではありません。天然林から採取する場合などには、採取規制を設けることもエコ・フォレスティングの実践です。
「環境サービスへの支払い(PES,Pay-ment for Environmental Services)」は、いま、世界的に注目されている動きです。水源のある地域に、その水を利用する都市部の住民が一定のお金を支払う水源税などがこれにあたります。他にも、生物多様性や景観美を保っていることに対する支払いや、エコ・ツーリズムの利用料としての支払い、森林を維持することで二酸化炭素を吸収・固定していることに対して支払いが行われている例もあります。いずれも、根拠となる数値を示しにくいという難しさはありますが(例えば、植林したことで水量がどのくらい増えたか、水質がどのくらい改善したか、ということを数値で示すことは容易ではありません)、森林の社会的な機能に対してお金を支払うという考え方はとても大切だと思います。経済的な行為が後ろ盾としてうまく組み込めれば、エコ・フォレスティングより長続きするものになるはずです。
また、経済行為を伴わない森林管理の分野でも、施設の建設を伴う場合など、特定目的で行っている管理行為が他の森林価値を低減させる可能性があり、「エコ」であるために工夫が必要となる場合があります。例えば、砂防ダムが鮭の遡上を阻害する場合、鮭の遡上が可能となるような仕掛けを工夫することはエコのための取り組みといえるでしょう。
前項で述べたように、森林に求める価値、森林と関わる目的は、人の数だけあります。つまり、「絶対的なエコ・フォレスティングの森」ではありません。「サステナブルかどうか」という基準に照らして個別の行為を積み重ねることこそが、エコ・フォレスティングの実践になると考えます。

■6.主役は、普通の人々。狭義の「フォレスティング」。
フォレスティング を考えるときに重要なのは、職業として森林と関わっているのではない、一般の(例えば、都市部に生活する)人々の動向です。
前項であげたような、木材生産や非木材森林産品の採取、水源や景観の維持というのは、森林所有者や森林管理者による行為です。それ以外の、大多数の一般に人々は、いわば受動的に森林の産物や各種サービスによる便益を享受し、森林の社会的価値の顧客となっているわけです。
しかし、これからは、そうした人々こそが、積極的に森林と関わりあうことが重要になるはずです。社会的価値が認められないものは失われる運命にあり、価値が認識されていても最終的に経済原理などに抗すことができずに失われてしまうのであり、その認識を大きく左右するのは、大多数の一般の人だからです。
そこで、一般の人たちが、森林の価値やサービスを認識し、それを享受するために、森林を舞台として積極的に自然と関わり合う活動を総称して狭義の「フォレスティング」と呼んではどうかと考えています。その中には、ただ森林い入って散策をしたり、動物や植物を視察したり、あるいは環境教育やボランティア活動をすることも含まれます。森林でどんなことをするか。それは、人それぞれです。
そして、ここにもまた「エコ」であるための基準が必要でしょう。ゴミや騒音などによって生態系に悪影響を及ばさないようにすること、踏み荒らさないことなど一定のルールとマナーが守られる必要があります。また、限界を超えて人が集まらないようにコントロールすることも必要になるでしょう。
日本でも、自然度の低い大都市圈などで、日常的な森林とのふれあいが行えない人口が増加してきていると思います。フォレスティングができるよう整備されたフィールドはまだまだ不足しているといえます。そのために、まず、都市部周辺では、残存する身近な森林を保全利用することが重要なんるでしょう。そうした身近な森林で、まずは親子で手軽な「森林五感ウォーク」に出かけてみる。このことが、エコ・フォレスティングへの第一歩であり、自然欠乏疾患の予防にもつながります。さらに、休日に出かけていく場所として、少し離れた近郊の森林の整備も必要です。これについては、多様な森林業がその受け皿作りを担える可能性があるでしょう。

■7.多様性の時代を、森とともに生き抜くために。
わが国の林業について見れば、拡大造林など膨大なコストをかけて森林全体の4割に至るまで造成した植林地を十分活用することができず、産業としての林業の低迷が、国土の保全から地球温暖化防止まで影響を与えているのは事実です。しかし、急峻な山国・日本は、結果として、国土の7割近くを森林として保ってきており、奥山の国有林の多くは保安林とされ、形骸化が指摘されながらも体系的な森林計画制度があり、保全管理の制度が整っています。その意味では、基本的にフォレスティングのためのお膳立ては整っており、ポテンシャルは高いといえるのではないでしょうか。
森林の価値は複雑で、多元的なものです。木材生産を行っていれば他の価値も高まるという単純な予定調和では立ち行かなくなることは、長い歴史が証明しました。ある価値を高めようとした行為が、他の価値にとってマイナスになることもあります(生物多様性の保全と高成長の植林地の造成など)。現在は森林の地球温暖化防止機能がとりわけ注目されていますが、それのみを深追いしすぎると、地球の生態系を壊すことにもつながります(バイオ燃料を増産しようとするあまり、熱帯林をすべて油ヤシに変えてしまう、というよなことを考えればわかります)。ひとつの絶対的に正しい答えはなく、また経済価値以外に共通の尺度がなかったために、たくさんの論争や紛争が起きました。
20世紀は林業と環境の論争の時代だったといえます。自然の喪失感、環境に対する危機感も高まりました。だからこそ21世紀は、「エコであるかどうか=持続可能であるかどうか」を共通の指標に、新しい人間と森林との関係を築いていく時代にしなければなりません。森林と環境に対する関心が高まっている今は、大きなチャンスではないかと思っています。

※なお、本稿は全て個人的な意見で、所属機関の見解とは関係ありません。(柴田晋吾)


[柴田晋吾]
1957年京都府生まれ。東京大学農学部林学科卒業。林野庁に入庁、鷹巣営林署長、林野庁研究普及課総括課長補佐などを経て、現在、国連食料農業機関(FAO)に出向中。科学修士(アメリカカリフォルニア大学バークレー校)。農学博士(東京大学)。
著書「エコ・フォレスティング」(日本林業調査会)