■第17号(1998.4発行) 特集:日本人が森に学ぶこと。

森林と林業の「これから」を考えるために。

山形大学名誉教授 北村昌美(談)


1.森林に何を求めるか。それが、人間と森林との関係を決める。
2.ヨーロッパの森林は、何よりも大切なふるさとの風景。
3.森林への視線は、森林を守る人への視線。
4.日本人の視線は、経済へ、経済へ。
5.日本人が森林に求めるものは何か。
  それを明確にすることから、新しい林業が始まる。




現在の私たちと森林との関係は、経済的な側面が非常にクローズアップされています。しかし、現在、この業界が抱える問題を考えるとき、森林を経済的な対象とのみとらえる方法自体に限界があるように思います。これまで述べてきたことのまとめとして、林業が将来につながる活路を見いだすためにどのように考えるべきか、その方向性をさぐってみたいと思います。いちばん大きな問題は、日本人にとって森林とは何か、ということです。

■1.森林に何を求めるか。それが、人間と森林との関係を決める。
「森林とは何か」と考えるにあたって、私たちはしばしば、「どんな機能を持つか」という考え方をしてきました。木材を生み出すことは,その中でも目に見えるわかりやすいものですが、水源になったり、表土を守ったり……という、いわゆる「公益的機能」と総称されるものも、知識としてはかなり浸透してきています。国は、そうした機能を果たす森林として「保安林」を指定し、一定の範囲で保護と規制を行ってきました。
保安林には、機能別に17の種類がありますが、よく見ると、大きくふたつの性質のものに分かれることに気づきます。
ひとつは、「水源涵養保安林」や「土砂流出防止保安林」「魚付き保安林」など。これは、人間が関与するかどうかにかかわらず、森林がそこにあることによって生まれる結果を機能ととらえています。
もうひとつは、「保健保安林」や「風致保安林」。こちらは、人間が要求してはじめて発揮される性質を機能と呼んでいます。
人間が森林に分け入って心地よさを感じたい、森林の景観を楽しみたい、と思えば、森林は「保健機能」や「風致機能」を持つことになりますが、人間が心地よさや風景に無関心であれば、その「機能」は存在しなくなる。人間が森林に要求する内容によって、森林は機能を変化させてゆくのだということです。
私たちは、現在もっている知識の中で森林を定義し、理解しようとしているわけですが、人間の求め方によって、森林がまだまだ未知の機能を発揮しうるとすれば、「森林とは何か」という問いの答えはむしろ、人間の側にあると言えます。
人間が森林に何を求めてみるのか。人間は森林とどのような関係でありたいのか。そこが、考えるべきポイントになるでしょう。

■2.ヨーロッパの森林は、何よりも大切なふるさとの風景。
森林に何を要求するのか。この問題について、ヨーロッパの事例をあげてみたいと思います。
ヨーロッパの人々が自然を楽しむとき、はっきりと意識することがひとつあります。それは、森林や牧草地や、山や谷がつくり出す風景です。
彼らは、休みのたびに足しげく森林内の散策(ドイツ語でいうところのヴァンデルング)に出かけます。新鮮な空気や光を感じ、木々の間を歩くことを楽しむのはもちろんですが、そこで欠かせないのが風景の美しさです。歩くにつれて次々に移り変わり、展開していく風景です。
第二次世界大戦直後のドイツ・フライブルク地方はフランスの占領下にありました。当時フランスが勝手に伐採した跡を見ながら、「あれはフランス人が伐った」と、ドイツ人がいまいましげにつぶやいているのを何度か聞いたことがあります。ドイツの秩序だった伐採計画が乱されたことの恨みもさることながら、大切な風景が台なしにされたことへの恨みも大きかったにちがいありません。
彼らにとってそうした風景は、ふるさとの証として、長い時間をかけてつくりあげてきたものです。その土地の人々の美意識と、その土地に伝わるさまざまな喜びや悲しみが反映されている。それは、木材を算出することとは別の次元での森林の意味、彼らが森林に求めるものなのです。
「ふるさとの風景をつくり出す」という点で国民的合意ができているから、ヨーロッパでは、風景を守り、維持するために、さまざまな具体的な方策がとられています。森林や農耕地を美しく維持するように規制する法律がある一方で、そのための費用が、都市部の人から当事者である農村の人に支払われることが強制化されています。造林や伐採でさえ、林業の立場ばかりでなく、風景との関連で計画されるほどです。
しかし、少なくとも風景に関する限り、ヨーロッパの人々のような思いが日本人の中にあるとは思えません。ハイキングに行けば、人々は一目散に山の頂上を目指します。移動中の車窓の風景を楽しめなくても気にかけないことは、トンネルばかりが続く鉄道や、遮音壁にかこまれた高速道路などを見てもわかります。太陽がまぶしいから、と、電車の片側のすべての窓にカーテンが引かれている様子などは、日本人の景色に対する態度をよく表しているように思います。
もっとも、自然の風景を構図としてとらえる視線が、日本ではあまり育たなかったという歴史的・文化的な経緯もあります。古来の日本の自然観からいえば、自然とは、自分と一体となってあるもので、「風景」として突き放して眺めたり、ましてや美醜を判断する対象ではありませんでした。風景の中に身をおきさえすればよかったのだと思います。
遠くにある山々は、人間の創造したものでも、望んで与えられたものでもなく、自然に与えられたもの(「じねんに」そこにあるもの)だからです。
こうした風景に対する感覚の違いは、絵の描き方におもしろく表れるのではないかと考えています。西欧の人々の描く風景画は、額縁で切り取ったときの構図の美しさを主眼としているように見えます。森林を、牧草地を、どこに配置するのか、が大きな問題です。しかし、日本の山水画を見ると、視線はあくまでも何かに絞られており(断崖に立つ人、枝にとまる鳥……)、山や森は遠くのほうでぼんやりとかすむ背景にすぎません。
いずれにせよ、私たち日本人には、森林の風景に対する思い入れが、ヨーロッパのようには育たなかった。風景画それほど大切だということが腑に落ちないから、お金や労力を費やしてまでそれを維持し様というような行動に結びつかないわけです。

■3.森林への視線は、森林を守る人への視線。
日本とヨーロッパに、もうひとつ大きな違いがあります。
ヨーロッパでは、森林の中を歩き、風景を楽しむという行為を通して、人間と森林との関係が非常に明確に意識されています。森林の中を歩き、風景を楽しめるようにしている人々――森林の維持管理にたずさわる人々――の存在が、一般の人にまでよく知られているのです。たとえばドイツでは、森林官は医者とトップを争う好もしい職業です(あるアンケートで「あこがれの職業」をたずねたところ、対象者の約3分の1が森林官になりたいと答えたいという例もあるほどです)。
日本でも、一部の人の関心は高まってきてはいます。91年から始まった「森林インストラクター制度」は、森林や林業に関する知識を提供したり、野外活動の指導・助言、森林の案内などができる人を有資格者として認めるものですが、応募者は年々増加傾向にあります。林業にたずさわる女性も増えてきました。
しかし、森林を見て(もしくは山を見て)、それを維持してくれている人に思いを致す(ましてや感謝する)人が果たしてどれだけいるかというと、非常に疑問です。残念ながら日本では、森林を維持管理している人に対して、一般の人々の信頼感が育っているとあいい難い面があります。

■4.日本人の視線は、経済へ、経済へ。
明治時代のはじめに国をあげてドイツの森林経営の方法を採り入れて以来、日本人が森林に要求してきたのは、主に木材の生産でした。国有林を中心に、画一的な方法で「効率的な」木材生産をおし進めてきた歴史については、以前に述べたとおりです(『神籬』vol15参照)。
さまざまな産業、モノづくりにおいて、速さや効率のよさ、便利さや価格の安さの追求は、宿命的な大命題でしょう。そういうものを社会が求め、その要請に応えるために変化してきた、と言ってもいいかもしれません。日々、新しい技術が開発され、次々に新製品が送り出され、変化がすなわち発展であるかのような図式があります。
ところが、林業が相手にしている森林は、事情が違います。木材とういう製品が生まれてくるまでに、何十年もの物理的な時間が必要になる。他の産業と比べると、ケタ違いに長い時間です。その長い時間の先をよみながら、持続的に製品を生み出すのが林業の技術であって、社会のニーズにあわせて簡単に方針を変更したり、急いで新製品を開発する、ということとは根本的に相いれないものです。
にもかかわらず、他の産業と同じ基準で経済システムの中に組み込もうとしたことが、林業をを非常に苦しい立場に立たせました。
もっと言えば、林業に対する評価の下され方にも、同様の問題があります。速さや効率のよさというニーズを実現することで、その産業なり企業なり製品なりの評価が上がるのだとすれば、林業が必要とする何十年という時間の意味を、同じ視点から理解することは難しい。林業という産業をもっと本質的に理解するためには、まったく別の次元の「根拠」が必要だということになります。

■5.日本人が森林に求めるものは何か。それを明確にすることから、新しい林業が始まる。
私は、その「根拠」を、日本人の心理的な部分と森林とのかかわりに求めたいと考えます。森林は、経済の対象としても確かに存在するけれど、それが森林のすべてではないはずだということを、改めて強調しておきたいのです。森林の生み出すものを金銭的に換算して、年間いくらの木材を算出する、といってみても(あるいは、公益的機能にも同じように計算式をあてはめて、土砂災害を防ぐ機能はいくらになるから……と計算してみても)、日本人と森林との関係を正しく把握することになはならない気がします。
日本人には、大昔から森林と寄り添ってきた歴史があります。木々の中に神々を感じ、森林から材をもらって家を建て、道具をつくり……。「木の文化」といわれてきた日本人の暮らしが、経済的な理由だけで築かれてきたとは思えないからです。
昨今の自然志向、自然回帰の風潮の背景には、経済性や、便利さ、効率のよさを極端に求め過ぎたことへの、本能的な危機感があるように感じます。環境に配慮した自動車の開発が行われたり、資源のリサイクル運動などが、少しずつではあるが根付いたりしているのは、私たちの心に、今のままではいけないという思いが芽生えているからでしょう。
問題は、そうして熟しつつある社会の機運を、そのように正しく森林に向けさせるかということです。自然を求める風潮は、ともすれば林業を環境破壊ととらえたり、まったく人間が手を加えないことが自然保護だという論調になったりする。そうした逆風をいかにはねのけるかを考えなくてはなりません。
ひとつには、研究者や林業の関係者がもっている知識や技術を、広く世間に知らせることが必要です。ご存知のように、昨年の温暖化防止京都会議では、化石燃料のCOの排出量から森林のCO吸収量を差し引く「ネット(正味)方式」が採択されました。数量的にはまだ未確定の部分が多く、また、対象となるのは90年以降に植林された森林に限られてはいるものの、森林の「COの固定」という機能に対して、いわば国際的な肯定の見解が出されたわけです。森林関係者の中には、これで森林が世間に認められた、と喜ぶ声もあったようですが、私はむしろ、これまでそういったアピールが少なかったことの方が強く感じました。
「COの固定」を森林の機能として強く打ち出すかどうかはまた別の議論ですが、もしそうであるなら、森林にたずさわる者がどんどんそれを世間に訴えるべきです。そして、会議の場でそれが認められたとき、既に常識であると、当然だと、社会の人々が思うくらいの認識をつくっておくべきだと思うのです。
もうひとつは(そして、より根本的には)、森林にたずさわる者が社会に向けて森林の重要性をきちんと説明するための根拠をもつことです。経済や政治の移り変わりに左右されないような、本質的な考え方(哲学とでもいうべきもの)を確立することです。森林と日本人とのさまざまな歴史をたどり、森林を「文化」としてとらえようとしてきた背景には、単に技術論に終わらない、森林の哲学の必要性を強く感じていることがあるのです。
かつて大規模な人口林の増大と増伐の時代には、政策にのっとって、とにかく木材を産出することが求められてきました。「伐り惜しみをするな」という言い方まであった。森林や林業が、まったくの経済政策の対象として、経済や政治の論理で取り扱われたわけです。当時、私もすでに研究者の立場にいましたが、そうした動きに対してきちんと理論的に反駁できなかったという反省は、今も残ります。
森林とは何なのか、林業とはどのような産業なのか。そして、私たち日本人が(ヨーロッパにおける「景観」のように)森林を求め、さらに経済的にも合意できるものは何なのか……。政府や経済界も、社会の人々も、だれもが実感し、納得できる理論を、今はまだ、探している途上だと言わねばなりません。
おそらく、森林を機能という側面からとらえる考え方を、一度捨ててみることが必要でしょう。森林は存在しているだけで既にはかりしれぬ意味を持っているのです。森林には文明と文化が投影していることも忘れてはなりません。森林と人間の関係は、利害を離れ、しかも何千年という時間を視野に入れて、新たに構築されるべきだと思います。
日本人が森林に求めているものを生み出し、提供し、維持しているのが林業であると、そして、その役割をもって経済的に支援されるべきだと、そのような合意が成立すれば、林業は可能性に満ちた次の一歩を踏み出せます。それが、林業が現在抱えている問題を、根本的に解消していくための端緒だと思うのです。


[北村昌美]
1926年兵庫県生まれ。京都大学農学部卒業。農学博士。山形大学農学部教授、同学部長、ドイツ・フライブルク大学客員教授を歴任。森林経理学・比較森林文化論が専門。
主な著書に、『森林と日本人―森の心に迫る』(小学館)、『森林と文化―シュヴァルツヴァルトの四季』(東洋経済新報社)、『森を知ろう、森を楽しもう』(小学館)、共著に、『森林計測学』(養賢堂)、『森を見る心』(共立出版)、『草原の思想・森の哲学』(講談社)など。