■第16号(1997.10発行) 特集:日本人が森に学ぶこと。

「木の文化」の歴史と行く末。

山形大学名誉教授 北村昌美(談)


1.割りやすく、加工しやすい。林業の覇者、スギ。
2.すっくと立つスギには、神が降りる。
3.日本人が最も好きな木「マツ」。
4.姿形が、めでたさが、マツへの愛着を深くする。
5.環境問題の風にあおられて、ブナの人気は急上昇。
6.激しく移り変わる評価の基準。
7.それは、新しい文化への過渡期か否か。
8.木を見る目と心を養う。日本の「木の分化」を養う。



ヨーロッパの「石の文化」に対して、日本は「木の文化」だと言われます。しかし、日本人がどの程度それを実感し、そうであることを求めているかというと、疑問に感じる部分もあります。今回は、マツ・スギ・ブナといった、日本人にとってなじみの深い樹種をとりあげ、それらの木と日本人とのかかわり方をたどりながら、日本の「木の文化」の行く末について考えます。

■1.割りやすく、加工しやすい。林業の覇者、スギ。
建築物から桶、樽、割り箸に電信柱…。日本人は、実にさまざまな場面でスギを用材として使ってきました。現在は他の樹種や他の素材で代替しているものもたくさんありますが、ひと昔前までの日本人の生活は、まさにスギに埋め尽くされていたといっても過言ではないでしょう。
当然、わが国におけるスギ林業の分布は極めて広く、吉野林業や北山林業といった日本の伝統的な林業も、大半がスギを対象にしたものでした。
現在のところ、人間とスギとの関係がもっとも早く認められたのは、今から約6500年前。縄文時代早期の福井県・鳥浜貝塚で、スギの板材が発見されました。弥生時代後期の登呂遺跡でも、水田のあぜ道の崩れを防ぐために使われた、おびただしい数の矢板が出土しています。
それらの遺跡で、なぜスギが使われたのでしょうか。もちろん、いちばんの理由は、スギが非常に割りやすい性質の木だったことでしょう。そこに、当時の森林の状況が要因として加わります。
人の手が入る前の古代の森林は、定期的に伐採されるということがないわけですから、自ずと大木が多くなります。木を使うためには、まず森林から運び出さなくてはなりませんが、大木を丸太のまま運ぶのは(方法はあったとしても)非常あ手間と労力がかかる。小さく割れる材の方が合理的だということになります。
おそらく昔の人も、いろいろな木を試す中で、スギの割りやすい性質を発見したのでしょう。材の性質と人間の技術との兼ね合いから、用材としてのスギと日本人のつきあいが始まったのだと思います。
やがて人間の側の技術が発達し、さまざまな機械が導入されることで、用材として使える木の種類は増えました。しかし、天井板や床板、屋根のこけら板、桶や樽…というように、日本の建物や生活用具が木を中心に作られたのは、そして、ヨーロッパのように石造建築に向かわずに「木の文化」を発達させ得たのは、この「割りやすい」性質をもつスギの存在が大きく影響していたと考えられます。

■2.すっくと立つスギには、神が降りる。
一方、スギは、神の宿る木でもあります。野本の神社の参道には、しばしばスギ並木が見られます(羽黒山でも、スギ並木の参道が有名です)。しめ縄を張り、神聖な木として祀っている例も少なくありません。なんとなく、「御神木はスギ」と思われがちです。
しかし、最初から「何の木」と種類を定めて神木に祀ったかというと、そうではありません。ヒノキやクスノキの場合もあり、イチイやイチョウの場合もあります。羽黒山では、ブナが神聖な神の木で、神事に使う道具は多くブナでつくられます。吉野山ではサクラが神木でした。
木に神性を感じる――畏れを抱くいちばんの原因は、初期の段階では、その大きさではなかったと思います。森林の中に入って、非常に大きな木に出会う。人間の力をはるかにしのいで大きければ、自然に畏れの気持ちを抱く。それが、「木」というもの全般に対して人間が抱いた最初の感情、いちばん根本にあるものだと思います。
そうした木々の中にあって、まっすぐに天へ向かって育っていくのスギは、桁外れの寿命の長さも手伝って、だんだんに位置づけを高めていったのでしょう(その過程で、用材としての美点が、スギをよりすばらいいものにしたのかもしれません)。
一旦神木としての地位を獲得すると、今度は神聖な木としての杉を植える、ということにつながっていったのだと思われます(羽黒山のスギ並木も、後年人の手によって植えられたものです)。

■3.日本人が最も好きな木「マツ」。
森林環境についての意識調査(※)によると、「親しまれている木」「もっとも好きな木」の項目で、圧倒的1位はマツでした。
マツは、日本庭園の必須の木であり、正月には門を飾り、めでたさの象徴として歌に詠まれ、また絵に描かれてきました。美しい海岸を描写する「白砂青松」という言葉にも、特に指定して「マツがよい」とする気持ちが現れています(事実、「日本三景」と呼ばれる風景は、いずれもマツを基調としています)。能舞台の背景にも、銭湯のタイル絵にも、マツは現れます。
こうした「マツのある風景」が、暮らしに非常に深く根を降ろしているために、日本人とマツとのつきあいは非常に長い歴史をもっているかのように見えます。
しかし、マツが人間の歴史に登場したのは、前途のスギとくらべると、ずいぶん新しいことのようです。鳥浜貝塚や、弥生時代の登呂遺跡でも松は発見されていませんし、2〜3世紀ごろの邪馬台国の記述でも、照葉樹の名前が大勢を占めて、マツに相当する名前は見あたりません。
大阪で発掘された当期の窯跡の調査では、年代の古い窯の燃料はカシなどの広葉樹であったのに対し、6世紀の後半からアカマツが増え、7世紀の後半にはほとんどがアカマツになってしまったらしいことがわかりました。
痩せ地に強いマツは、土壌が荒れ、他の植生が衰退してしまっても育つことができます。6世紀から7世紀にかけて、人間の生活が急激に拡大した飛鳥時代には、おそらく燃料としての森林利用も増加したでしょう。広葉樹が伐られ、持ち去られたあとの土地、それがすなわちマツの繁栄する場所となりました。
以後数百年の間にマツが増え、日本人にとって親しみ深い着になっていったであろう様子は、8世紀に編纂された万葉集に数多くマツが詠まれていることからもうかがえます。
※『森林環境に対する国民意識の研究――森林国フィンランドと日本の比較――』文部省科学研究費補助金(海外学術調査)研究成果報告書、北村昌美ほか、1986/『森林環境に対する住民意識の国際比較に関する研究』トヨタ財団女性研究報告書、四手弁綱英ほか、1981

■4.姿形が、めでたさが、マツへの愛着を深くする。
マツは、水湿に強い性質から、船材や基礎杭などの使われました。また、燃料としてもなくてはならない存在でした。東大寺の再々建の際や、昭和宮殿の造営などにもマツを使った記録があります。しかし、木目が細かく、ヤニを含んでいるために加工しにくく、木材としては、あまり魅力のある木とは言えません。
一方、常緑の葉と鮮やかな幹の色は、樹木全体に、何ともいえない明るくめでたい印象を生み出します。その植え、老木になれば幹が曲がって(そのためになお、用材としては扱いにくいのです)、姿もいっそうよくなる。江だぶりを細工しやすいという性質もあります。それは、盆栽を愛でる日本神野気持ちにはぴったりなのです。
全国の名園には、「○○の松」と名前をつけられたマツがたくさんあります。中には、芸術的な形をしたものも少なくありません。たとえば、京都にある善峰寺の「遊竜の松」は、まるで回廊ように、幹から左右に26メートルも枝翼を広げています。愛玩物のように、人間が耐えず手入れをし、姿を整えながら育てた結果です。
年神を迎えるための依代(よりしろ)として門飾りが一般的になったのは、平安時代末から鎌倉時代にかけてだといいます。最初は地方によって木の種類は様々だったのですが、マツが登場するやいなや、全国を席巻してしまった。神が宿る木、めでたい木として、マツが日本人の心をとらえた様子がうかがえます。

■5.環境問題の風にあおられて、ブナの人気は急上昇。
今、日本で最も脚光を浴びている樹種といえば、まずブナがあげられます。「好きな木は?」とたずねると。かならずブナの名があがるというのが、昨今の調査の定石です。
しかし、10年前は、ずいぶん状況がちがいました。前述の調査では、ブナを「親しまれている木」だとしたのは、ブナ帯のただ中にある鶴岡市の20%をのぞけばほんのわずかであり、格別日本人の意識にのぼる木ではなかったのです(ヨーロッパにだけある木だと思っている人すらいました)。
ブナ林はもともと、どちらかといえば、実を食料にしたり、材を薪炭にするものとして利用されてきました。腐りやすく狂いが大きいブナ材は、建築用材にはなりにくく(ブナ帯の中の地方では、建材に使われた例も多数あるようですが)、経済性に低い木とみなされていたのです。
昭和30年代から40年代にかけて行われた拡大造林では、ブナを伐採して、「有用な」針葉樹への転換が大々的に行われました。大正時代に年間数万立方メートルだった伐採量は、第二次世界大戦中は100万立方メートルを超え、さらに昭和30年代以降には250万立方メートルを超える量になります。ブナ林は目に見えて減少し、奥地へと追いやられていきました。
昭和50年代になって、ブナはようやく貴重材とみなされるようになり、やがて、自然保護の一環として、「ブナを守れ」という声が高まっていきました。そして、今や、神聖にして侵すべからず、きちんと将来を見越した若干量の伐採でさえ、批判の嵐にさらされるといった状況です。
この人気の高まりは、あまりにも急激でした。スギのように、実際によさがはっきりしている場合はさほど問題がないのですが、ブナの場合は実体以上に、名前ばかりが先走った感があります。

■6.激しく移り変わる評価の基準。
日本人の移り気については以前にも触れましたが、木に対するイメージという点でも、同じことがいえます。
たとえば、国有林の経営状態悪化の問題もあって、昨今はスギが悪者になっている風潮があります。国有林事業において、様々な木をいっせいにスギに置き換えていった一連の動きが正しくなかったことは事実です。政策としては反省すべきところがあるし、事実反省もしている。しかし林業の場合、その結果はすぐには現れません。そして何より、それは人間側の問題であって、スギには何の罪もないことです。
ところが、スギが悪そうだ、ということになると、実体にかかわりなく、社会の風潮として「悪い」というレッテルが張られてしう。マスコミの力も大きいと思います。日本人の生活が、どれほどスギの恩恵を受け、杉に支えられてきたか、ということをすっかり忘れて、あたかもスギが日本を滅ぼした悪者であるかのように書き立てる。花粉症の問題などもしかりです。
同じことがブナにも起こらないとは言えません。現在は熱狂的なブナ信者がいるけれど、その熱が去ったらどうなるか。実体のともなわないシンパシーは、同じくらい実体のない批判にもなり得るのではないかと危惧します。
ブナは、極相林をつくるという意味ですぐれた木ではあるけれど、決して実用性の高い樹種ではありません。人間にとってメリットの見えやすい樹種ではないのです。そこのところを含めて、もう少しあるがままに、政党に評価すべきです。その上で、何をもって「ブナ林を大切だ」とするか。水源となる公益的機能や、(それ以上に)ブナの木そのものに、あるいはブナ林の風景に愛着を持ち、大切に思えるかどうか。考えるべきは、そこだと思います。

■7.それは、新しい文化への過渡期か否か。
今、自分の家を建てるのに、自分で木材の種類を選ぶ人はどれだけいるでしょうか。どの木をどういうふうに使うか(あるいは,使いたいか)。木の性質をどう生かすか。木材を供給する側や家を建てる専門家をのぞけば、一般の人々はあまりそういう意識はないのではないでしょうか。
天井板は、かつてはスギ材が主流でしたが、そこにはスギの柾目の美しさを楽しむ気持ちがあったはずです。しかし今や、スギの板模様を印刷した模造品が大量にでまわっています。天井板が「本当は何であってほしいか」という必然性がないわけです。風呂桶も、たいていはプラスチックに変わってしまいました。割り箸の是非をめぐって、あんなに論争があったにもかかわらず、今の割り箸の材質に対してどれだけの注意がはらわれているかは疑問です。
「変わらなさ」ということにおいて、日本とヨーロッパの場合は非常に違うと思います。
ヨーロッパの場合は,用材にする木の種類が比較的少なく、木の種類・性質と用とが直結したまま、現在まで伝わってきています。また、古いものを大切にし、それに執着して使いつづけるという習慣もあります。新しいものや代用品を、日本ほど簡単には取り入れません。何十年も昔の状態のまま、部屋には小さな古いあかりがぽつりと灯るだけ、などというホテルもたくさんありますが、日本人なら部屋中にあかあかと電灯が欲しくなるところです。
今の日本は、「木の文化」ならぬ、「プラスチックの文化」になってしまっているかもしれません。工業的なもの、新しいものを輝かしく感じて憬れる気持ちが、いまだに続いているのかもしれません。その憬れの気持ちに引かれて、木製のものを捨て、プラスチック製のものへと身の周りのものをどんどん変えて行ったのです(その中にあって、木目模様を印刷して天井に張り付けるというニーズがあることを、どう評価すればよいのかは、難しいところです。偽物でも気にしないことの結果である一方、「偽物ででもよいから身のまわりに木らしきものがほしい」という気持ちの現れでもあるわけで、そういう気持ちさえもなくなったら、さらに問題なのかもしれません。それが、もういちど本物の木へと向かう、ひとつの段階であればいいのですが)。

■8.木を見る目と心を養う。日本の「木の分化」を養う。
たとえば吉野林業では、各段階の、太さのちがう間伐材それぞれに、意味と用途がありました。間伐の必要性と間伐材を使う必要性の、どちらが先にあったかは定かではありませんが、木と人間とが、呼吸をぴったり合わせて、ひとつの「木の文化」を形づくっていたことは確かです。「自然と人間が、どこで折り合っているか」ということを、かつての日本人は、体験から知っていたのです。
もういちど何十年も前の生活に戻ることは不可能だし無意味ですが、時代に合わせて暮らし方を変えざるをえないとき、日本人は、あまりにもたやすく古い文化や習慣を捨て去ってしまうように思います。
ヨーロッパの人々は、森林に強い愛着を持っていますが、それは、毎日の生活の中に、森林が組み込まれているからだということは、以前にも述べました「『神籬』vol14参照)。しかし、その森林はずっと現在の姿だったわけではなく、開発のために、17世紀に一旦そのほとんどを伐採してしまった。荒廃の時期を経て、都市に自然を「配置」した結果、現在のヨーロッパの、豊かな森林があるわけです。
日本人は、体系だった知識として知っていなくても、体験し、感じることで自然とつきあってきました。古い木造建築も、データをもとに図面をひいたわけではなく、そうした経験の所産だったわけです。スギやマツとの間の交流は、おそらくヨーロッパの科学的手法では生まれな得なかったでしょう。木でつくった家に住み、木の道具を使って暮らしてきた日本の「木の文化」を、どのように受け継いでいくか。これからの私たちに課せられた、大きな課題だと思います。


[北村昌美]
1926年兵庫県生まれ。京都大学農学部卒業。農学博士。山形大学農学部教授、同学部長、ドイツ・フライブルク大学客員教授を歴任。森林経理学・比較森林文化論が専門。
主な著書に、『森林と日本人―森の心に迫る』(小学館)、『森林と文化―シュヴァルツヴァルトの四季』(東洋経済新報社)、『森を知ろう、森を楽しもう』(小学館)、共著に、『森林計測学』(養賢堂)、『森を見る心』(共立出版)、『草原の思想・森の哲学』(講談社)など。