■第15号(1997.4発行) 特集:日本人が森に学ぶこと。

国有林の歩みと日本の森林、日本人の森林観。

山形大学名誉教授 北村昌美(談)


1.それは、「眠れる財源」として始まった。
2.整然とした一斉林と整然とした理論。
  日本人を魅了したのは、ドイツ林学。

3.経済林としての国有林の歩みは、ジリジリと下降する。
4.眠っていたのは「財源」ではなかった、という事実
5.ドイツは森林に学び、日本は理論を追いかけた。
6.欠けていたのは、内なる動機と必然性。
7.演繹か、帰納か。
8.この価値の転換期をどう乗り切るか。
  国有林は本当の意味での岐路にきている。




高い森林率を誇る日本で、国有林は、全森林の約30パーセントという大きな割合を占めています。その施業の変遷は、民有林にも大きな影響を与えてきましたし、多額の赤字をかかえて苦しむ現在の姿は、日本人と森林のつきあい方のひとつの側面を、如実に示しているように思います。

■1.それは、「眠れる財源」として始まった。
日本の国有林は、明治政府の成立とともに生まれました。各藩が所有していた「藩有林」と、お寺や神社の「社寺有林」を、国のものとして召し上げたことが始まりです。明治2年(1869年)から明治3年(1870年)にかけてのことでした。その後、従来の入会地(いりあいち)の多くを官有地に編入して、広大な国有林が成立しました。
国有林発足の理由はいくつか考えられます。
森林の維持管理という形で、山村に住む人々に労働の場所を提供する目的もあったでしょうし、公共の財産として国が効果的に管理をするという意味もあったでしょう(大面積の森林をまとめて管理すれば、水源を守ったり、土砂崩れを防いだり…といった働きを、より効果的に発揮することが考えられます)。国有林が多く奥山にあることからもわかりますが、なかなか一般の人が手入れをすることができない森林を、国が一括して面倒をみよう、ということもあったと思います。
しかし、もっとも大きな目的は、財源の確保だったと思われます。当時は、新政府が発足したばかりで、しかも富国強兵の時代ですから、国は、あらゆるところに財源を求めていた。山は、木材の立ち並ぶ、文字通り「財源の山」だったわけで、その「眠っている」財産を国のものとして管理しようとしたのだと思います(あとで述べるように、ここにひとつの落とし穴がありました)。

■2.整然とした一斉林と整然とした理論。日本人を魅了したのは、ドイツ林学。
こうして生まれた国有林は、維持管理の方法をドイツ林学に学ぶました。明治維新を機に、外国の科学や文化を一挙に取り入れた動きのひとつです。
鎖国だった徳川幕府時代にも、外国との交流が全くなかったわけではありません。林業についていえば、お手本にしていたのはフランスで、徳川幕府にはフランス林業の資料がかなり蓄積されていたようです。
ところが、明治維新の後、森林学を志す学生や政府の役人が繰り返しドイツを訪れたことで、日本の森林施業は大きく方向転換します。彼らが見たのは、皆伐と人工植栽によって生み出された、トウヒの見事な一斉林でした。それこそが、ドイツ林学のすばらしさを示す、何よりの証拠だと映ったことは、想像に難しくありません。
ドイツ林学の、寸分の隙もない理論体系もまた、彼らを魅了します。
典型的なのは「法正林」です。
「法正林」とは、毎年等しい量の木材を、将来にわたって永続的に収穫できる「模式的な森林」――この理論における「理想の森林」――です。単純な言い方をすれば、植えた直後の若木から伐採直前の成木にいたるまで、各年齢の森林がそれぞれ等面積ずつあって、毎年その1区画ずつを伐採していけばいい、ということになります。そのためには、全ての木が毎年「適正な」成長をして、全体とし常に「適正な」蓄積がある状態が必要になります。ドイツ林学では、そのためにの管理の方法が、整然とした数式を含む処方箋で表されていました。
結果的に言えば、こうしたドイツの法正林思想は、理論がすべて先立った非現実的なものだとして、後に厳しい批判を受けることになります。実際の施業も、天然更新を取り入れた、より自然に近い方法へとシフトしていきました。しかし、初めてそうした整然とした理論体系に触れた日本人にとっては、ドイツ林学は、ただ圧倒的にすばらしいものに見えたのです。
帰国後の彼らは、おしなべて林業や林政に熱意を示し、国有林はドイツの理論のもとに整備されていきました。

■3.経済林としての国有林の歩みは、ジリジリと下降する。
ドイツ林学の導入期、薪炭林や原野を対象として、スギ・ヒノキなどの大造林がおこなわれました。森林と森林の境界を確定し、林道を建設し、本格的な森林経営が始まったのです。一方で、それまで蓄積された木を一斉皆伐し、その跡地への人工造林も行っていました。しばらくの間は、その方法で順調に推移していきます。
バランスが崩れたのは、昭和初期の戦争需要による増伐です。大量の木材を必要としたため、伐採は、「国土保全」「水源涵養」「土砂流出防止」などの目的で設定されていた保安林にもおよびました。この時期には、造林などにかかる手間を少しでも軽くしようと、ドイツで成果の現れていた天然更新の導入も検討されました。
高度経済成長時代には、木材需要の急激な増大で、木材価格が急騰しました。国はその対策として、国有林のさらなる増伐にふみきり、さらに丸太輸入の完全自由化を決定します。国内に流入した安価な外材におされて、国産材の供給量は、昭和42年(1967年)をピークに下がり始め、昭和44年(1969年)には50%を割りました。この頃には、木材市場で国有林が果たしてきた役割――良質の木材を安定して供給するとともに、国内の木材の価格を調整をする――は、変化を余儀なくされます。
昭和50年(1975年)には、特別会計となっていた国有林野事業の収支が赤字に転落、木材価格も昭和54年(1979年)から下降の一途をたどります。平成7年(1995年)には、国産材の供給量はついに20%までに下がり、民有林を含めた国内の森林の荒廃、山村の過疎化、海外での森林破壊など、さまざまな問題を抱えるに至りました。木材の価格低迷に際して、国有林の財政も急激に悪化しました。
国有林事業が発足して約130年、日本の林業は、非常に苦しい局面を迎えることになったのです。

■4.眠っていたのは「財源」ではなかった、という事実
国有林の窮状を、もっとも如実に世間に知らしめたのが、経済的な問題――赤字の大きさ――でしょう。95年度決算では、1318億円の損失を計上、累積債務は3兆3000億円あまりとなりました。その数字に圧倒される前に、なぜこれほどの赤字をかかえることになったか、その原因を考えなくてはなりません。
国が山林を手に入れたとき、前途したように、それは、手をかけなくても樹木が立ち並ぶ「財源の山」でした。そこにある木を伐ることが、そのまま収入になった。木材の価値が伐採費と見合えば「利益」が生まれたわけです。しかし、その木を植え、育てた費用を(人件費も含めて)考えれば、まったく違った計算になったはずです。すでに育っている木を伐って売るのは、いわば在庫処分のようなものだったのですから。
その、実態のない「利益」を、本当の利益のように錯覚したのが、そもそもの誤りだったのではないでしょうか。しかも、国有林の収支だけを独立させた特別会計にして、黒字分は一般会計に繰り入れるという措置までした。そこで生まれた黒字分は、本当は、すでに木を育てる費用として支出済みだと考えるべきでした。
だから実際は、昭和50年(1975年)を境に経済収支が逆転したのではなく、そのはるか以前から内在していた事実が表に現れたと見る方が正しいのだと思います。

■5.ドイツは森林に学び、日本は理論を追いかけた。
次に、林業そのものの位置づけいついて考えてみたいと思います。
ドイツ本国のドイツ林学は、日本とは違った発展のしかたをしてきました。
日本の明治時代の半ばから大正時代初期にあたるころ(すなわち、日本がドイツ林学を取り入れてまもなく)、先程述べたように、ドイツでは「法正林」の考え方を批判する動きがおこりました(厳密に言えば、ドイツ林学にかかわる周辺諸国でおこったのですが)。皆伐と、それによる同齢一斉林の出現が森林の勢力を衰えさせ、風害で大量の木が倒れるなどの災害が頻発したからです。
計算ではうまくゆくはずのことが、実際にはそうならなかった。自然が計算通りの姿にならなかったという事実は、演繹的に理論を積み上げて生まれた「法正林」思想への懐疑につながりました。「『理想の森林』はあらかじめ与えられた処方箋によって決定されるべきものではなく、自然の力を十分に活用し、自然界の推移に人間が手を貸すことで生まれるのだ」という、いわば「自然に帰れ」という論議がおこったのです。森林を実際に施業してみて、その結果を検討し、それによって次にとるべき施業の方法を、定めるべきだというのが、「法正林」思想の代表的な批判者、スイスのH・ビオレーの主張です。
しかし、ドイツの場合は、突然一斉林が否定され、他の施業法に変わったわけではありません。現実の森林の様子に対する一種の危機感(あるいは、「森林はこうあるべきだ」という潜在的な気持ち――「哲学」と呼んでもよいかもしれないもの)から、半ば自然発生的に「自然に帰れ」という声が生まれてきたのです(実は、ここのところが非常に重要なのです)。
日本の国有林でも、そうしたドイツでの動きを一通り追いかけてはいました。しかし、それは、個人的な研究の領域にとどまっていて、実際の施業に定着することはほとんどありませんでした。当時の日本の国有林は、導入したドイツ林学に基づいて制度を整えるのに懸命で、他の方法に目をむけるどころではなかった。何より、そうした変化を心から必要だと思えなかった、内面的要求が熟してなかったことが原因でしょう。日本の国有林が「自然に帰れ」という言葉を実感するのは、はるかに時代が下った,高度経済成長の増伐で森林の荒廃が進んだ昭和40年以降のことです。

■6.欠けていたのは、内なる動機と必然性。
では、日本での変化はどういったものだったのでしょうか。
先に述べたように日本でも、昭和初期には天然更新の導入が論じられました。戦後の一時期には、成長の速い木を植えることが奨励され、ポプウラやユーカリを植えようとしたこともありました。ユーカリは、オーストラリアでは高さ100メートルまで成長するから,それを日本の山に植えれば、効率的に木材の量が増える、というわけです。戦争中の増伐で伐り尽くした後ですから、そういう即効性のある方法が求められていたのだと思います。
問題は、このような変化が、しかるべき必然性をもった変わり方ではなく、その都度、トピック的なことにとびついているように見えることです。ドイツでのそれのように、皆伐と一斉造林への危機感(内面的な要求)から天然更新へ移行したのではなく、どちらかというと、事業費の縮小の目的のために、ドイツでの流行を導入したにすぎなかったという点です。その証拠に、日本ではすぐ流行が変わる。次の流行がくると、前にやっていたことはあっと言う間に忘れられてしまいます。日本人が移り気であるということは確かにあるでしょう。少しやって芽が出なかったら、すぐ次の方法に移ってしまう。日本の予算制度にも問題があると思います。研究でも何でも、補助金や研究費が出るのは、3年が限度。それがすぎると、テーマを変えて申請しなければお金が出ないのです。しかし、森林のことを考えるのに、3年とか5年とかで結果がでると思って取り組むところが、根本的に間違っているのです。何十年もたって、ようやく意味がわかることもたくさんあると思いますが、そういう次元で発想することができない。じっくりと、実際に起こっている事実から必然性を成熟させることができないのです。

■7.演繹か、帰納か。
日本は、理論に理論を積み重ねて演繹的にものをのべていくといことが非常に尊敬されるという伝統があります(いわゆる「書斎派」です)。これがまさに、初期のドイツ林学でした。フィールドへ出て、そこで得た事実や経験から帰納的に理論を組み立てる方法(「野外派」というべき姿勢)が尊重される時代ではなかった。そういうものの意味が認められてきたのは、ごく最近だと思います。
森林とつきあうときの時間のかけかたという意味で、ドイツと日本はずいぶん違います。たとえば、ドイツの営林署では、所長が全責任を持って営林署ごとの経営をします。彼等は、何十年もかけてひとつの森林をじっくり施業する。そういう体制ができているし、また、個々の創意工夫によってできあがった施業法が非常に尊重されるのです。
日本の営林署は全国に264カ所ありますが、営林署長は2、3年ごとに交代しますし、経営方針も営林署を統括している営林局でつくられますから、営林署長は与えられた方針を忠実に実行することが責務になってしまっている(付言すれば、労働運動対策も大きなウエイトを占めています)。署長が実際に森林とつきあう機械は多くは望めないのではないでしょうか。それぞれの風土にあった施業法が生まれてくるということは非常に難しいと思います。

■8.この価値の転換期をどう乗り切るか。国有林は本当の意味での岐路にきている。
近年、国有林では、森林の重要性をより国民に理解されやすい方法で説明しはじめました。
昭和57年(1982年)に、「森林浴」を提唱し、さらに平成3年(1991年)には、森林を機能別に類型化して、その重要性を訴えました。簡単に言うと森林は、「国土保全」「自然維持」「森林空間利用」「木材生産」などの役割を担っており、それぞれの役割が果たしやすいように施業する必然性がある、というわけです(つまり、木材を生産して利益を生む森林ばかりではない、ということです)。
森林がさまざまな公益的機能をもっていることは事実ですが、国がそれを強調しはじめたのは、単にそのことを周知徹底するためばかりではなかったでしょう。経済的に成り立たなくなった国有林の収支をどこかで補わなければならない、その理由を、なんとか理解してもらうため、という側面も否定できないと思います。
このことも、森林の意味を小出しにしてしか説明しないという点で、施業法が移り変わるのと同じ問題をはらんでいます。
国有林が発足したときに、森林が「公営的機能」を果たすこと、それ自体を利益と考える、そういうコンセンサスができていれば、今ごろになって個別に説明しなくてもすんだのだと思います。もっと言えば、民間の森林の財政的な窮状も、何らかの方法で補填できたのではないでしょうか。それが、「森林は儲かる」という前提で始めてしまった。予算の制度もそういう前提でつくってしまった。だから、儲からなくなったときに、あわてて他の理由をさがしてアピールしなければなくなってしまったのです。日本の国有林は、「森林が人間にとってなんであるか」という根本的な了解――「森林哲学」――をきちんと作り上げないままに、130年の年月を過ごしてしまっているのです。
国有林は今、確かに転換期にきています。木材で儲かるというメリットも薄れましたし、働く場所としても、労働の厳しさに比べてあまり収入にならないという意味で、魅力的とはいえない。公益的機能といっても目に見えないからなかなか実感できない。国有林の側でも、自然休養林などをつくって努力しているのですが、山で楽しむ習慣のない日本人にとっては、いまひとつ説得力に欠けるのでしょう。
この追い詰められた状況を正面から見据え、人間と森林との関係を、もう一度最初から考えはじめることが必要だと思います。この日本で、日本人は、どういう意味で森林が必要なのか、その答えをじっくり探すこと。「日本の森林哲学」というべきものを徐々にでもつくること。それができるのも、やはり国有林でしょうし、様々な方策も、その過程で生まれてくるでしょう。民間の林業を、今一度よい方向に牽引してゆく力を国有林が持つ可能性も、その中にあると思います。


[北村昌美]
1926年兵庫県生まれ。京都大学農学部卒業。農学博士。山形大学農学部教授、同学部長、ドイツ・フライブルク大学客員教授を歴任。森林経理学・比較森林文化論が専門。
主な著書に、『森林と日本人−森の心に迫る』(小学館)、『森林と文化−シュヴァルツヴァルトの四季』(東洋経済新報社)、『森を知ろう、森を楽しもう』(小学館)、共著に、『森林計測学』(養賢堂)、『森を見る心』(共立出版)、『草原の思想・森の哲学』(講談社)など。