■第14号(1996.10発行) 特集:日本人が森に学ぶこと。

森林と人が再び寄り添うために。

山形大学名誉教授 北村昌美(談)


1.歩いて、歩いて、とにかく歩いて、ヨーロッパの人は森林を実感する。
2.自然から遠ざかる現代の日本人。
3.「しぜん」と「じねん」。――日本人の自然観。
4.明治維新と、日本人の自然観と。
5.西洋の科学技術の、その向こうにあったもの。
6.日本人は、「ただ森林であること」を楽しめるか。
7.新しい「森林文化」を創造するために。



日本の森林が厳しい状況におかれていることの背景には、森林が、その存在の価値ほどには、経済的に補填されない状況があるということを前回述べました。そこからもう一歩踏み込めば、それは、森林が存在することそのものに心からの喜びを見出せるかどうか、そこのところが鍵になるのだと思います。

■1.歩いて、歩いて、とにかく歩いて、ヨーロッパの人は森林を実感する。
近年、アウトドア指向などと盛んに言われ、人々の心は自然に、森林と向いているかに見えます。総理府の調査でも、「条件が整えば」を含めると、実に69%の人が「農山村に済みたい」という回答を寄せています(総理府『みどりと木に関する世論調査』1988)。しかし、実際には、農山村の過疎化は進み、林業への理解も高まっているとはいえません。日本人の暮らしの中に、本当に自然(森林)が近しい存在として根付いているかというと、疑問を持たざるを得ません。
人間と森林との関係について考えるとき、非常によい参考になるのが、ヨーロッパの人々、特にドイツ人の森林との接し方です。
日本の場合、森林の大半が山にあって、人々の住む場所と物理的に分離していますが、ヨーロッパでは都市の中にも豊かな森林があります(そうなるまでには、ヨーロッパの人々が意識的に、望ましい環境として都市に森林を取り込んだ、という経緯があるのですが。そして、その森林の配置のために、国土に占める森林の割合は日本よりずっと低いにもかかわらず、非常に緑が豊かだと感じるのですが)。その森林の中を、ドイツの人たちは、実によく歩くのです。
日曜ともなれば、ドイツの人々は、街じゅうこぞって森にでかけます。家族で、友人と、あるいはひとりで、森林の中をひたすら歩く。これが、何よりの楽しみなのです。ドイツ語では、特にこの行為を指して「ヴァンデルング」と呼び、週末ごと、休みごとの恒例行事です。しかも、その歩き方たるや半端なものではなく、季節や天候にかかわらず、時には10キロ20キロと、平気で歩くのです。
ヴァンデルングの現場となる森林の方も、体制が整っています。まず、森林は、「保健休養目的による森林への立ち入りが許されること」という法律条項によって、人々に開かれています。加えて、森林の中には、縦横によく整備された道路がはりめぐらされているため、人々は比較的軽装で歩くことができます(日本での「山歩き」で思い浮かべるような、薮をかきわけ…といった苦労は、ヴァンデルングにはあまりあてにはなりません)。駐車場も整備されていて、森林の入り口までは自動車でも楽に行くことができますし、バスなどの公共の交通手段も充実しています。
ドイツ・フライブルク市での調査では、100%近くの人が「森林内の散歩が好き」、半数以上が「ヴァンデルングが好き」で、同じく半数以上が「最も行きたい場所が森林」と答えています(「森林と人間」石田正次、1979)。彼らが休日のたびに飽きずに森林にでかける様子は、ドイツ人の「森林好き」を示す最もよい証拠でしょう。それは、決して「健康のため」か「自然観察のため」とか、一面的な目的があってのことではありません。彼らは、森林を歩きながら自然の風景を眺め、そのことに何とも言えぬ楽しみを感じているのです。
この習慣は、親から子へと引き継がれ、彼らの日常生活の中にしっかり定着しています。歩くことを通して森林を全身で体験し、実感することが、半ば「民族遺伝」とでもいうかのように受け継がれ、彼らの生活を形作っているのです。

■2.自然から遠ざかる現代の日本人。
ドイツ人の「森林好き」が、実際の行為にきちんと裏付けられている様は、先程の、「農山村に住みたいけれど実際は住まない」という日本人の状態と対照的です。また、ドイツのヴァンデルングが日常生活の一部となっているのに対し、日本の山歩きは、「ハイキング」や「遠足」として、特別な「行事」という趣をおびています。しかも、せっかく自然の中に出かけても、山の上の展望台だとか、公園だとか、どこかへたどり着くことに重点が置かれていて、なかなか道中の自然そのものを楽しむことにならないというのが実態ではないでしょうか。
日本人は、豊かで繊細な季節感を持ち、自然と深く親しんできた――日本人はそのように言われ、自らもそう思ってきたところがあります。観念の中では、今もかつてと同じように、自然の移り変わりを愛でているつもりでいます。しかし、現代の生活の実態に目を向けてみると、自然と触れ合う機会が日常的にあるとは言い難い。望まなければ、生涯一度も森林に足を踏み入れないことも可能でしょう。
森林の価値を実感するためには、まず、心から森林を求める思いが生まれることが大切だと思うのですが、実際の森林と触れ合うことなくその思いを育てることは非常に難しい。テレビの映像で吹雪を見ても、実際の吹雪が理解できないのと同じことです。自然のただ中に入って自然を肌で感じ、自分の目で風景を眺めること。ああ美しい、と感動すること。木々に、山々に、ふとした畏れを感じること。そうした体験を抜きにしては、自然に対する湧き上がるよな思いは生まれてこないと思います。

■3.「しぜん」と「じねん」。――日本人の自然観。
かつて、日本の「自然」は、西欧の「nature」のような、認識の対象としての「モノ」ではなく、「自ずから然り(=本来そうであること。この場合自然は「じねん」と読むのがふさわし)」という、ひとつの「状態」でした。生活の中に自ずからあるものとして寄り添い、深い奥山には畏れを抱き、里山の豊かな恵みに愛着を感じながら暮らしてきたのです。
そうした自然との付き合いの中で、日本独自の林業も生まれました。
たとえば、北山林業では、一本の木(台株)の根元からミニチュアの森林状に多数の幹を育てる「台株仕立て」という特殊な技法が編み出され、吉野林業では、綿密な間伐スケジュールによって林の密度をコントロールしつつ、間伐材を、太さに応じて用途を変えて利用しました。
それら、日本古来の林業は、まるで庭木を育てるように、森林の中にある一本一本の木と、きめ細かくつきあうものです。理論として体系化されることはなかったかもしれませんが、長い経験によって培われた自然に対する知恵や哲学が、確かにありました。そしてそれこそが、日本人の自然観から生まれた自然とのつきあい方であったし、実際のつきあいのよって、日本人の自然観はさらに深められたのです。自然と人間とが互いに交流し、影響を与えあう文化が、そこのはあったのです。

■4明治維新と、日本人の自然観と。
明治維新を契機として、日本は様々なヨーロッパの技術や思想を取り入れました。林業も例外ではありません。お手本となったのはドイツ林学です。
ドイツ林学の基礎となる考え方――継続的に収益をあげるために、森林全体を「計画的単位」という概念で把握し、管理する――に出会って、日本人は一種のカルチャーショクを受けます。一本一本の木を見つめ、慈しみ育ててきた行為と対照的に、ドイツ林学が突如ひとつの学問体系として(あるいは思想体系として)、輝かしいまでに整然とした姿で現れたのです。その、目もくらむようなすばらしさに圧倒されて、日本人は、もともと日本にあった自然との接触のしかたを、あたかも時代遅れであるかのように退けてしまった。古来続いてきた自然とのつきあい方を、断ち切ってしまったのです。
同時に、整然とした理論がヨーロッパの対自然の姿勢のすべてであるかのごとく錯覚をしたことも問題を複雑にしました。ドイツ林学の理論や技術の体系のすばらしさに圧倒されるあまり、その体系を生み出した森林と人間の関係、心のつながりというものに目を向けることができなかった。林業以外の部分でも、森林との人間の交流があったことに気づかなかった。精神性を抜きにして、結果としての理論だけを導入してしまったのです。そこから、現代に至る「自然離れ」は始まったのです。

■5.西洋の科学技術の、その向こうにあったもの。
一般的に、ヨーロッパの科学思想では、「自然を自分とは別なものととらえる」と解釈されてきました。対象である自然をよく認識するために、自然のことを調べ上げて、そこから理解を構築する、それが自然科学だ、という解釈です。また、ヨーロッパはキリスト教の文化ですから、「神が森にすむ」とか「自然そのものが神である」といった考え方は否定されています。
しかし、では、本当に人々の心の中に自然との一体感や自然を畏れる気持ちがないのかというと、そうではありません。
ひとつには、先程のドイツのヴァンデルングの例のように、現在にいたるまで、日常生活の中に自然を取り入れながら暮らしてきた歴史があります。あるいは、キリスツ教が広がる前には、自然の中に様々な神を見た古い宗教もありました。
以前行った調査の中でも、興味深い結果が出ています。ヨーロッパと日本と、5カ国17都市で行った住民意識の調査で、「山川草木に霊が宿っていると感じたことがありますか」という質問をしたところ、フィンランドやオーストリアでは60%以上が、ドイツでも40数%が、「感じたことがある」という答えでした(『森林環境に対する住民意識の国際比較に関する研究』四手井網英ほか、1981)。日本では、ほぼ50〜60%が肯定の回答でしたが、東京では20数%しか肯定の回答がなかったことも付け加えておかなければなりません。
このような結果を見ると、自然との精神的な交流は、むしろヨーロッパ人の気持ちの中に残されているようにさえ思えます。そして本当は、そうした精神性こそが、思想や理論に先立つ、人間の本質に根差した気持ちなのではないでしょうか。
そうした精神性、自然との一体感に気づかずに輝かしい理論体系だけを取り入れた日本人は、日本古来の自然観からも遠ざかり、かといって新しい理論に見合う自然観も養えないまま、現在に至ってしまったというのが、日本の現状ではないでしょうか。

■6.日本人は、「ただ森林であること」を楽しめるか。
しかしながら、そうした日本人の「自然離れ」の中で、自然と親しむ場を整備せねば、という機運は高まっています。「グリーン・ツーリズム」と呼ばれる、農山村との交流型慣行事業などもそうです。「グリーン・ツーリズム」とは、もともとドイツやフランスなど、ヨーロッパで行われている試みで、家族で1〜2週間農村に滞在し、現地の自然・文化・社会に親しむ、新しい形のリゾートです。
「農山村の活性化」と、「心の豊かさを求める国民の意向」と、その両方を満たすものとして、日本は政府をあげて導入に積極的ですが、日本でこれが成功するには、よほど慎重に方法を考えないといけません。ヨーロッパの「グリーンツーリズム」は、農家は部屋と食事を提供するだけ、宿泊客もゆっくり過ごし、周囲の自然を楽しむことを目的としていますが、日本で、この普段のままの、すなわち特別なものが何もない状況を楽しめるか、はなはだ疑問だからです。
私の住む山形でも、「県民の森」をはじめ、公園や森林の中の遊歩道を整備しています。その「県民の森」を訪れた人がどういう動きをするか調査してみると、広場に来たうちの5%しか遊歩道に入っていかない。おそらく、そこに「何もない」というのが原因ではないかと思うのですが、日本人は、その何もないこと(言い換えれば、「ただそこに森林があること」)に価値を見いださないわけです。
日本では、どうしても自然そのものによってではなくて、その中にある施設とか、イベントによってしか人が集まらない。それで、どこでもイベントを計画するのですが、人が集まればそれでいいというものでもなかろうと思います。将来につながる哲学を――日本人の中に、少しずつでも自然の実感が養われてゆくようにするための哲学を――持っていないと、「何かやっているから行ってみる」という一時的な現象だけに終わってしまいます。

■7.新しい「森林文化」を創造するために。
森林の価値を心から認めること――すなわち、「ただそこに森林があること」を心から求めるようになるためには、何とか日本人を森林に誘いこまなければいけません。ある程度歩きやすい環境を作ったりすることもひとつでしょう。車椅子でも移動ができる、そんな遊歩道が生まれれば、人々はもっと気軽に森林に入ってくることができるのです。
しかし、林業家の側からいえば、あまり来てもらいたくない、というところもあるでしょう。森林に人が入ると、タバコの火の不始末で山火事がおこったり、空き缶をどんどん捨てていく人がいたり、いろいろ問題が起こりますから。そういうこは、ヨーロッパでも、必ずしもうまくいってるわけではないが、日本よりは大きな問題にならない。森林に対するつきあいかたがきちんと受け継がれているからです。
日本では、これから、いろいろな問題を解決する過程もすべて含め、少しずつ新たな文化をつくっていかなければいけない。対自然の文化はゼロだというくらいの前提で始めなくてはならないと思います(国有林などが、そういう役目を積極的に果たしていくといいのですが)。
森林について考える時に、水源を涵養するとか、空気を浄化するとか、森林の効用を説くことがしばしばなされますが、そんな風に個々の面をばらばらに取り上げるやり方も考え直せたらいいと思います。効用を挙げて悪いわけではないけれど、「森林浴」などという言葉をつくって(これは日本だけの造語です)、だから森林に来るといい、と知識や理屈を先行きさせても、一時のブームは生まれるが、生活に根ざした文化は生まれない。今必要なのは、日本人の生活の中に「自ずから然り」のものとして森林が定着し、そこから、湧き上るように森林への愛着が生まれることだからです。
森林の中で、人間が何らかの精神的な影響を受け、それを受けた人間が、また森林に影響を与える、森林と人間との間に、精神的な交流――「森林文化」――をもう一度生み出すことができれば、将来、森林と人間との関係は、もっとよいものになるはずです。


[北村昌美]
1926年兵庫県生まれ。京都大学農学部卒業。農学博士。山形大学農学部教授、同学部長、ドイツ・フライブルク大学客員教授を歴任。森林経理学・比較森林文化論が専門。
主な著書に、『森林と日本人−森の心に迫る』(小学館)、『森林と文化−シュヴァルツヴァルトの四季』(東洋経済新報社)、『森を知ろう、森を楽しもう』(小学館)、共著に、『森林計測学』(養賢堂)、『森を見る心』(共立出版)、『草原の思想・森の哲学』(講談社)など。