■第13号(1996.6発行) 特集:日本人が森に学ぶこと。

「自然保護」と「林業」の出会う場所

山形大学名誉教授 北村昌美(談)


1.「自然保護」とは何か。「林業」とは何か
2.「手つかずの自然」は変化するという事実。
3.「手つかずの自然」は「美しい」という、日本人の自然観。
4.「観念の自然」をもたらしたもの。
5.「生きること」はすでに、「自然に手を加えること」。
6.「林業」と、「自然との折り合い」と。
7.「森林であること」に価値を見いだしたい。



日本で、世界で、刻々と自然破壊が進む中、林業は、しばしば「自然保護」の動きと対立するものとして論じられてきました、しかし、「木を伐ることは自然破壊である」と短絡する前に、自然について、林業について、もっと知るべきことがあるような気がします。

■1.「自然保護」とは何か。「林業」とは何か
様々な要因の中で、多くの自然が(そして森林が)損なわれているという事実があります。自然の荒廃が目に余るようになり、「自然を守りたい」「豊かで美しい自然を、なるべく損なわないで次の世代へ受け継いでいきたい」というのは、程度の差こそあれ、多くの人の心の中に存在する思いでしょう。その結果として「自然保護」というという動きが生まれてくるわけなのですが、「自然を保護する」ことについて、人々がどのような認識を持ち、どのような意義を認めているか、という点では、必ずしも意見の一致を見ているわけではありません。
「自然保護」の中でしばしば語られるのは、「自然を守る」ためには人間は一切手を加えてはならない、一木一草を損なわずに子々孫々に伝えなければ、という論調です。手つかずの自然がもっとも望ましい、という考え方をする限りにおいては、森林に手を加え、木を伐る林業は、そもそもそれと対立する存在になります。しかし、「自然保護」対「林業」というような対立関係を論じる前に、「自然を保護すること」とは何なのか、ということを考えてみる必要があると思います。

■2.「手つかずの自然」は変化するという事実。
まず考えなければならないのは、「自然を手つかずの状態にすること」だけが自然保護なのかどうかということです。
実際には、自然保護にはいくつかの方法があります。まったくの人間が手を加えない、文字通り「手つかず」の状態で自然を残す自然保護もあれば、現状の自然を維持する方法、人間が自然を活用しながら、なおかつ良い状態に保つ方法(林業はこれに含まれます)、さらには、荒廃した自然を元の状態に戻すことも自然保護の一環としてとらえられます(科学技術庁資源調査会編『みどりとの共存を考える』参照)。前提として、様々な方法の「自然保護」が有り得るということを認識しておく必要があります。
問題は、ある地域の自然環境を、どういう方法で保護していくか、ということでしょう。人間が全く手を加えずに、自然の流れに任せておけば、森林の姿は時間とともにどんどん変化する。「豊か」で「美しい」と感じる自然が、変化の方向によってはそうでなくなる場合もあるわけです。自然を「手つかず」の状態にするということは、そうした変化の可能性があるのだ、ということを十分理解することが必要だと思います。

■3.「手つかずの自然」は「美しい」という、日本人の自然観。
私が所属している森林環境研究会では、1978年から、5カ国17都市で森林環境に対する住民意識の調査を行いました(詳しくは、『森林環境に対する住民意識の国際比較に関する研究』<四手井綱英ほか、1981>に述べられています)。その調査の中で、「あなたは、『農場や牧場や森がいりまじっている、人手の加わった自然』と『まったく人手の加わらない森林や荒れ地の、ありのままの自然』のどちらが好ましいと思いますか」という問いに、ドイツやオーストリアの各都市では、80パーセント強の回答者が「人での加わった自然」と答えているのに対して、日本では、「手つかずの自然」をあげた回答が高い数値を示しました(東京で約半数)。また、東京では、「森林を美しく維持するためには人間の手を加えるべきではない」という意見を「正しい」と回答した割合が他に比べて非常に多いという傾向も見られました。
現在の日本の森林の多くが、長い歴史の中で木材の供給地として利用され、人が手を加えることによって維持されてきたという事実と照らしあわせれば、人手を加えなければ森林は「美しく」保たれるという漠然としたイメージは、現実と合致しないことになります。「実際に人が手を加えない自然がどういうものか」を理解することとは別に、「自然はそもそも美しい」「その美しい自然は、手つかずの状態にしておくことが好ましい」というイメージが先立って、その「観念の中の自然」について論じることになってしまっているのではないでしょうか。

■4.「観念の自然」をもたらしたもの。
日本人は、長い歴史の中で、独自の自然観を培ってきました。芸術においても「自然」は大きなテーマであり、暮らしの中の重要な要素でもありました。それは、人間と自然とが、かつて日常的に深く交流していたことによるものだと思われます。しかし、その自然観は、生活と自然が切り離されることで徐々に現実の自然の姿から遠ざかってゆきます。
私の住んでいる山形県鶴岡市のあたりを見てもよくわかりますが、ずっと見渡すかぎり田んぼがあって(庄内平野は国内有数の穀倉地帯)、急に山が始まる。生活の場所は田んぼの側にあって、山にはない。田んぼと山の間に(意識上の)境界線がすーっと引かれて、生活の空間が「こちら」、自然の空間が「あちら」という風にわかれてしまっています。都会の状況は言わずもがな、日本のどこへいっても似たような状況です。
そうした環境の中では、毎日の暮らしの中で自然に触れる機会が非常に少なくなります。実際の自然の様子、変化していく姿を実感することができないばかりでなく、自然を何か特別なもの、非日常のものととらえてしまう。いわば、自然が「彼岸」におかれてしまっているのです。
そうした変化の中で、日本人が築いてきた自然観は、ひとつの観念として残ってゆきます。花鳥風月の世界、伝統の「型」としての自然です。その自然は、常に美しく、かつ美しいまま変化しない。落葉もしなければ、花も散らないし、鳥も年中ないている。静止した絵のようなイメージです。常に変化しつづける現実の自然―「美しい」林が、自然の遷移によって他の植生に駆逐され、著しく姿を変えたりもする―とは非常に異なるものです。
現在はメディアを通じて多くの情報が伝わりますから、森林には様々な機能があって、水源の涵養をしているとか、土砂を保っているとか、盛んに言われるようになりました。人々は、知識としては「自然が大事」だと知っているわけです。けれど、それは教科書に書いてある知識で、森林が水をためているのを実感しているわけではないと思う。よく知っているのだけれど、それは抽象的に、観念的に知っているのであって、現実の問題とはなかなか重なってこない。
同じことは、自然保護の運動でも言えることです。「割り箸を使うこと」イコール「自然破壊」であり、割り箸を使わないことが、あたかも建築用材を節約するかのように真実味を帯びて理解されてしまうところに、現実から乖離した日本人の自然観が表れている。もちろん、無駄な消費をおさえ、木材を有効に利用する方法は考えていかねばなりませんが、その方法論は、あくまでも、実際の森林の状態や人間の生活が与えている影響などの「現実」から帰納されるべきものだと思います。抽象的な理論が先に立ち、なかなか現実に即した議論がなされないことの一因は、やはり日本人の観念的な自然観にあると思う。「自然保護」といっても、「現実の自然」と「観念的な自然」という、ともすると異なる自然を対象にして考えているのだということを前提にしないと、論争も対策もない、というのが私の考えです。

■5.「生きること」はすでに、「自然に手を加えること」。
もうひとつ確認しておかなければならないのは、人間が暮らしていくことと、自然との関わり方です。
普通の暮らしをしていれば、積極的に自然に手を加えなくても、誰かが手を加えた成果で生きていけます。牛肉とか豚肉とかのことを考えてもわかりますが、われわれが自分で手を下して動物を殺すことはないけれど、食事で肉を食べることで間接的に関わっているわけです。
森林に対しては、林業がその役割を担っています。普通の人は実際に木を伐ったりしなくていいわけで、そうすると自然に対しては何にも危害を加えてないような感覚をもってしまう。けれど、実際には、木でつくった家に住んだり、木から作られた紙を使ったりしています。
「自然に対して手を加えない」と画一的に言うことの向こう側には、自然から採れるものは食べない、木と伐ってつくる机はいらない、というような、非常に現実的でない生活があることになります。もし、自然に手を加えることを一切いけないといわれると、林業ばかりでなく、人間生活そのものも成り立たなくなります。
それよりは、直接的にせよ、間接的にせよ、人間が生きていくことの中には、「自然に手を加える=生きていくためのものを自然からいただく」ということが既に含まれていると考える方が現実に即しています。自然に手を加えずに生きていくことができないという前提で、自然とどう付き合うか、どこで折り合いをつけるかを考えた方がよいと思うのです。
自然の恵みがなければ生きてゆけないのは人間だけではありません。イノシシでもシカでも同じです。イノシシはイモをほって、シカは木の芽を食べて、生きています。森林の中でも、1本の木が育つためには、他の多くの木が犠牲になる。自然の中で、動物も植物も、互いに食べたり食べられたり、そういうことを繰り返しながら存在しているのです。
もし、そういう自然の一員として、動物や植物と同じ次元で人間の存在を考えることができれば、生きて行く上で必要な範囲で自然から恵みをもらうという、あまり矛盾のない自然との折り合いができるはずです。しかし、そうするには、いかんせん人間が増えすぎた。人間が自然に与える影響は、ややもすると自然の許容量を超えてしまいます(あまりにも多くのゴルフ場を造成することなどはその顕著な例です)。

■6.「林業」と、「自然との折り合い」と。
人間が、自然から何かもらわないと生きて行けないのならば、その前提にたって、「自然からどういうもらい方をするのか」を考えていくべきだと思います。同じもらうにしても、非常にあつかましいもらい方もあるし、なるべく相手のことを考えたもらい方もある。
そのひとつが、文字通り手つかずの部分と、人間が使用する部分をわけるということ。そして、利用する場合に、自然の「恵み」の部分だけではなく、「活力」を利用させてもらうということです。手を加えない状態で放っておけば10しかないものを、人間が少し手助けすることによって、それが12になったり13になったりする。その増えた2か3を余分に利用させてもらえば、もとの自然を損なわない、という考え方です。最近、そうした考え方を表して、「持続可能な開発」という言葉が流行していますが、林学とか林業というのは、そもそもそれが基本概念だったのです.。他の分野の人にはそれがなかなか理解されずに、林業はただ採取だけをやっていると思われがちですが、資源である森林を長い年月にわたって保っていく、すなわち、毎年ある量の木材を継続的に収穫できること(林学の言葉でいえば「保続」です)は、林学始まって以来の基本概念なんです。
今、山形県のブナ帯でも伐採が行われていますが、それに対しても非難の声があがります。こんなに木を伐ってどうするのか、というわけです。けれど、30年もたったら、ブナ林は必ず回復している、と私は考えています。30年あとにその森林を見る人はきっと、すばらしい山だ、と思うようになる。方法さえ間違わなければ、伐採によって木はなくなっても、森林はなくならないのです。
この木を伐ると、その次の状態はどうなるか、30年後、50年後、100年後のことを考えながら森林に手を加えることができるのは、専門家の技術です。どうすれば森林全体を損なわずに、自然から「いただく」ことができるのか、それを判断できるのが林業の技術というものだと思います。林業は何十年もかけてゆっくりと成長し、変化していく木を相手にしていますから、時間のものさしが長い。他の分野にくらべて、専門的な技術だと思われにくいのは、結果がすぐに見えないことに原因があると思います。
もちろん、これまでには、まさに自然保護と対立する形の林業もあった。反省するべき部分もあります。しかし、林業は(あるいは森林学は)、基本的に、現実の自然と真っ向から向き合い、そこで起こる事実から帰納しながら、、将来にわたって森林とうまくつきあってゆく技術をもっているはずです。そして、そのことこそ、「自然保護」と「林業」との接点となるはずなのです。

■7.「森林であること」に価値を見いだしたい。
現在、外国から安い値段で木材が輸入されることで、日本の林業は厳しい状況にあります(そしてそれは、とりもなおさず、外国で輸出のために大量に木が伐られているということでもあります)。結果として、林業が森林を維持できなくなることにもなります。
私の考えでは、ここでの問題は、木材を、単なる商品としてしか評価しないことにある。木材は伐られる前は森林だった、ということを忘れているのです。木材が森林であった時代にしてくれた事、果たしていた役割、いわば「生前の功績」を考えないといけない。
もちろん、ただ考えるだけではなく、何らかの形で、経済的に補充されることが必要になります。日本の木材が外国材にくらべて高くて、価格の面では競争力がなくても、「生前の功績」に対してお金が出るようになれば、森林をもっている山林は成り立つわけです。森林を維持することができるようになるのです。
今、日本人と日本の自然や森林の間に掛けているものは、それは、実際の自然から受ける、何らかの精神性ではないでしょうか。前途したように、実際の自然との交流があまりにも少ない生活の中で、自然の価値を実感することが難しくなっている。日本人の生活の中に、もう一度実際の自然が取り込まれるようになれば、徐々にでも自然の価値を実感することができるようになるでしょう。「森林が存在すること」それ自体に対して価値を認めることができるようになるにちがいありません。そして、森林を維持することを、経済的な流れの中にきちんと組み込みながら、森林ともっといい形でつきあっていけるはずだと思います。豊かな自然、豊かな森林を築く第一歩は、そのあたりから始まるのだと考えています。


[北村昌美]
1926年兵庫県生まれ。京都大学農学部卒業。農学博士。山形大学農学部教授、同学部長、ドイツ・フライブルク大学客員教授を歴任。森林経理学・比較森林文化論が専門。
主な著書に、『森林と日本人―森の心に迫る』(小学館)、『森林と文化―シュヴァルツヴァルトの四季』(東洋経済新報社)、『森を知ろう、森を楽しもう』(小学館)、共著に、『森林計測学』(養賢堂)、『森を見る心』(共立出版)、『草原の思想・森の哲学』(講談社)など。